……目が霞む。

 砂嵐の先まで見通して来たこの目が霞む。
 夜の砂漠の向こう、彼の影が白く見える。

 思うように動かない足、踏み慣れたはずの砂が纏わりつく。

 ……その時は、死が纏わりついていると思ったのよ。

 私は彼の仲間の仇。
 彼は私の夫の仇。

 生き残るのは一方だけ。
 そして私は、この生を諦める訳にはいかなかった。

 吠えるだけ吠え、そして走った。
 無策と罵られようと、他に手など無かったのだから。

 最期の一撃。

 けれど、それが届くより先に足がもつれた。
 体が思うように動かない。
 彼が、ゆっくり歩み寄って来る……。
 意識が遠のいて来た……。
 ダメ、まだダメ……。

 私には……子供達が待ってる……。


   ――――『砂漠の花』―――
       とある女囚の恋


 私は彼の仲間の仇。
 彼は私の夫の仇。
 生かされる道理など、在るはずもない。
 そのはずだった。

 いいえ、そうであって欲しかった。

 目が醒めた時、最初に気付いたのは足枷の存在。
 光が一条差し込むだけの、薄暗い部屋だった。
 空気の匂いからして、砂漠からそう遠く無いらしい。
 私は、自分が囚われの身である事を知った。

 目の前に彼がいた。
 せめて喰らい付いてやろうとして……駄目だった。
 枷もそうだけれど、体に力が入らなかったのよ。

 ……額に伸ばされる手を、振り払う事もできなかった。

 私は、改めて敗北を知った。
 それでもまだ、諦め切れなかった。
 彼は、暫く私の目の前にいた。
 その表情は……読めなかった。

 壁の向こう、幾つもの気配に気付いたのはいつごろだったかしら。
 そのどれもが、敵意と殺意に満ちていた。
 ……身震いがした。
 彼等に私を許す気が無いからではない。
 殺すだけで飽き足りなかったからではない。
 その存在に気付けなかった、私自身に。

 ……そんな私が、彼にはどう映ったのだろう。

 周囲を見やる私の頬に、沿えられる手。
 それだけが異質で、穏やかだった。
 けれども、それがくれたのは安寧では無い。
 私は改めて、自分が囚われの身と思い知ったのだ。

 彼はその晩、ずっと私の目の前にいた。
 あくまで穏やかに、けれども油断無く。
 彼が居る限り寝るものかと思っていたけど……負けちゃったわ。
 条件が悪すぎたのよ。

 虚ろなまま目が覚めたら、全身縛り上げられてた。
 どこかに運ばれる途中らしい。
 そして、嫌な予感通りと言うか、案の定と言うべきか……。

「スー……スー……」
 私の腹に寄りかかって寝てやがったわコノヤロウ。
 そこは、夫にも許した事は無いと言うのに。

 噛みつくにも微妙な位置だし、ツネってやろうにも動けない。
 ……ああ、寝返りでも打ってプチッと潰してやりたい。プチッと。

 到着を待たず、薬を嗅がされて眠ってしまった。
 連れて来られた場所は、先のよりは幾分広かった。
 目覚めた時、気だるさはもう無かった。
 枷も外されていた。

 ……私がここから逃げられないと、解っているから。

 地下なのかしら、日の光は差し込まない。
 目の前には鉄格子。
 たたき壊せるような柔な物ではない。
 足元は砂のように見えて、すこし抉れば金属の板。
 掘って逃げるのは無理そうだった。
 あそこが、最後のチャンスだったと言うわけね。

 こんな絶望的な状況でも、自分がどう扱われるのか不安だった。
 これ以上、どんな悪い事があると言うのかと。

 ……動きがあったのは、翌日かしらね。
 笛の音と、一眠りした記憶はあるけれど、時間の感覚は無かったわ。

「な、なあ……お前、気は確かか?」
「閉じこめ続けていたって、何も変わらないでしょう?」

 鉄格子の向こう、彼が立ってた。
 横に、ガタイ良い赤毛の男もいたわ。
 私を見てビクビク脅えていたけど。
 ……平静を装っても無駄よ、私には解るの。
 彼は相変わらず穏やかに、私を見ていたわけだけど。

 扉が開けられた。
 赤毛の男がさっさと逃げる。
 先に伸びるのは起伏のある、細い通路。
 相変わらず、逃げる余地は無さそうだ。

 私と向き合うのは、やはり彼。
 ……最初の一撃はかわされて、向こうにひょいと逃げていく。
 片手に長大な刃。もう片方の手で、変わらず私を招いている。
 いいわ……とっつかまえて八つ裂きにしてあげる。

 入り組んでいるらしい通路を右へ左へ抜けていく彼。
 真っ直ぐ追い縋ろうにも狭い。道の凹凸が邪魔。
 遠退きながら、カラカラと響く笑い声。

「あっはは、凄い凄い!」
 あー、串刺しにしてやりたい。

 追って、追って、時々つっかえて。
 そうして……急に視界が開けた。
 暴れまわっても良いぐらいの広さ。
 その中央に、彼がいる。
 ……あの時の、続きでもしようというのか。

 もしかしたなら。
 そんな期待がなかったと言えば嘘になるけれど。

 ……でも結局、負けたわ。

 完膚無きまでに負けた。
 耳をつんざくような高音も、眼を焼くような光も無かったのに。
 けれど、命を奪われる事は無かった。

 命よりも先に、私が倒れたのよ。

 圧倒的な優位を誇っていたはずの体力を、無数の剣閃に削ぎ落とされて。
 あの時と同じように、一挙一動を読み取られ、絡め取られるように私は地に伏した。
 それでも立ち上がろうとした意識もどこからか流れる音色に絡め取られ、沈んでいく。

 かなう術さえ無い。
 私は、ここでなぶられて生を終える。
 ……あの子達を、砂漠に置き去りにしたまま……。

 それからも何度か、彼が来た。
 突き立てるべき誇りなど、とうに折れた。
 けれども彼に応じたのは、一縷の望み。
 もしかしたら、一瞬の油断を突いて帰れるかもしれないと言う微かな望み。
 けれども、それさえ時間の流れの中で磨耗していく。
 立ち上がる事さえ拒否するようになるのに、さほど時間は掛からなかった。

 ……それでも、彼は私の側にいた。
「過ちだなんて、最初から解っていたのにね……」
 ずっと、動こうとしない私に寄り添っていた。
 一時の空白の後、彼は血と硝煙の匂いをさせて戻ってくる事があった。
 また、誰かを狩って来たのか。
 私も狩り取って、そのまま糧にしてくれれば良かった物を。

 時の流れは、容赦が無い。
 子供達の安否を思えば、尚更。
 あの砂漠で、守る者の無いまま生きていけるだろうか。
 砂竜に襲われるような場所では無いけれど……。
 もう一つの外敵を思い出して、それ以上考えるのを止めた。
 フフ……酷い母親よね。

 だから、バチが当たったのかしら。
 彼、突っぱねてやろうと思った翌日から来なくなったの。
 ……彼の事だから、読まれたのかもしれないわね。

 その更に翌日の事よ。
 扉が開けられていた。
 歩こうと思ったのは、何故だったのかしら。
 何にせよ、期待通りで無かったのは確ね。

 歩いた先はあの広場。
 私の入った入り口の向こう側にいたのは黒鎧の大男。
 ソイツは見掛けに反して、穏やかな口ぶりで言った。
 新入りのお嬢さんとは君かい、と。
 疑問に思う間も無く身構える。
 一目で、その強さが解ったから。
 全力でぶつからなければ、只では済まないと。

 ソイツは言った。
 ここはこういう場所だと。
 私達のような者を捕え、競わせる場だと。
 敗者は解らないが、少なくとも勝者には栄光と糧の約束された場だと。
 いずれ……多くの人の前で競わされる事もあるだろうと。

 ……そう聞かされた時の虚しさを、どうして彼に向けたのかしら。

 薙ぎ倒された私に、ソイツは言った。
 ……私は、幸運な方に入ると思う、と。
 幸運? 私が?
 こんな虜囚の身で、彼にさえ捨てられて?

 それから、同じような日が続いた。
 戦って、勝って、負けて、勝って……勝ちの方が多かったかしら。
 けれど、あの黒鎧にはどうしても、後一歩及ばない日々。
 当然だ……惰性で戦って勝てるような相手ではない。

 勝った時は、芳醇な香りのする木の実が食卓に並んだ。
 私には、意味など無い。
 とうに、食欲など失せたと思っていたのに、疲労の方が強い。
 その味わいに酔いしれている自分が哀しい。

 私はここで、慰み者で終わる。
 守る者も、思う者も無く終わるのだと。
 毎夜、泣いていたのかも知れない。

 だから、眠りに誘うあの音色は福音だった。
 いつも決まった時間、決まった時になるあの音色が。
 もう少し早く……いっそ、目など醒めなければいいのに。

「僕、もー嫌だからね、砂漠飛ぶの!」
「……僕は日焼け損〜日焼け損〜……」
「解ったよ。今度ヴァレリアのカフェ奢るから、さ」
「ソレで済ますなーっ!」

 ある日、足をやられた私はしばしの休息を余儀なくされていた。
 その傷を負わせたのは、言うまでもなくあの黒鎧。

 ……だというのに、外はなんだか騒々しい。
 それで目を覚ますと白い子が格子の前にいた。

 赤服の男に連れられた、白い子だった。
 私を見て、不思議そうに首を傾げていた。
 どうして、そんなに泣きそうな顔をしているの、と。
 だから問い返した。
 こんな所にいて、どうしてそんなにいい顔ができるの、と。
 その子は答えた。
 ……この人が、赤服の男がいい人だから、好きだからと。

 私は、黒鎧の言う幸運の意味を理解した。
 ならば、何故彼は私を幸運と言ったのか、ますます解らなくなった。

 続いてやって来たのは、紫の老婆。
 老いてはいたけれど、体中にある傷はくぐり抜けた修羅場を物語っている。
 ……私が、何度か敗北を喫した相手。
 ――ヤエさんや、飯はまだかのう。
 私が、何度か、敗北を……。
 ――のう、お陰で坊やはいつまで経っても小さいまんまじゃ。
 こんなボケ老婆に……。

 老婆が坊やと呼ぶ、紫の鎧を着た……彼と同じ髪の男に連れられていく。
 あんなになるまでここにいるのだろうか。
 ……本気で死にたくなって来たわ。

 多分、そのままふて寝していたんだと思う。

 ……足の内側に、人の手が滑り込む。
 トロリとした液体が、チリチリと染みる感覚。
 誰かの手が傷を優しく、優しく撫でて……。
 って、どこ、触って……。

 そのこそばゆい感覚に耐えかね目を開けると……彼が居た。
 どうしたの、と言わんばかりに目をぱちくりしてた。
 今更何をしに来たのかと唸れば、いつものようにひらりと逃げる。
 けれど、それ以上の事が出来なかった。

 立ち上がった私の前にあったのは、赤毛の男が押す滑車。
 その上に、その上に……私の……。
「それにしてもよ、アガレス」

 扉は、開け放たれていた。
傍らの彼に構うことなく飛び出した私は……。
「A級ディアブロス、砂漠の魔女の為にここまでするか?」

 私の、卵を翼で覆っていた。

「何ででしょうねえ」
 耳を寄せれば、確かに聞こえる命の音。
 無事だった。無事だった。
 私が居ない間、この子達はしっかり命を育んでいた。

 虜囚の身。知る事の無いかも知れない自由。
 複雑な気持ちが沸き上がっては吹き消され、沸き上がっては掻き消され。
 生きてる……生きてる……今はただそれだけで。

「綺麗、だったから?」
「エゴ丸出しだな」
「……そうかもね」

 ……単純だ。母親と言う生き物は。
 これだけで良い、これだけで生きていける。
 空虚な器に、母としての本能が満ちる。

 彼は、その日から私に会うのを欠かすまいとしていた。
 会えなくなる時は、人の言葉は解らないけれど、その旨を伝えに来る。
 帰ってきた時纏う血と火薬の匂いの中に、それを打ち消そうとした痕跡を見る。
 ……律儀ね。

 所詮負けた身。
 二頭の力を借りたとしても、あの砂漠から私の巣を探り当てた。
 事の善し悪しはともかく、その事には応えましょう。

 どの道、この子達を養う術は他に無いのだし。
 また、ここでの日常が始まるだけ。

 紫の……ガルルガだっけ?
 ローズお婆ちゃんは相変わらずフラフラしていて動きが読めない。
 白モノブロスのシュガー君は違う意味で苦労した。
 だって、まだ角を折られるのは可哀想でしょ?
 頭の光る……何だっけ?
 とりあえずあの子の触り心地はちょっと癖になる。

 そして私は、様々な事を知っていく。

 最初に知ったのは、笛のこと。
 赤毛の主任が、小さな角のような物を削っては吹き鳴らしてた。
 別に不快な音でも無かったし、寝る時間でも無い。

 時折、尻尾がぴくりと反応するの。
 ソレで思い出した。相手側の人間が吹き鳴らしていたわね。
 けれど……。

「僕らには要らないよ」

 その笛は彼に押し返されてしまったわ。
 私はいつも、思うままに戦っていたから。
 だから聞く音色はいつも一つ。
 私を眠りに誘う、あの音色。
 彼の奏でる笛は、とても心地よい物だった。
 彼の奏でる、音色だけが。

 そして、彼には仲間がいる事を知る。
 シュガー君が慕う赤服の男とか。
 ラウルと言ったかしら。
 その子が来た時は私がシュガー君の話し相手になっているの。
 この子は私と違って、戦いに負けてここに来たのでは無いらしい。
 体が小さいうちは、親と思っていたとか……。
 フフ、子供が可愛いのはどこも同じね。

 紫の鎧を着た子は部屋に入って来ない。
 むしろ入れない。
 だってローズお婆ちゃん、うちの子まで孫扱いするんだもの。

 部屋に入れないのがもう一人。
 触れれば切れそうな、にび色の鎧を纏った黒髪の男。
 もっとも、入る前に彼を連れて出てしまうけど。
 それが少し寂しい。

 そして……誰の主でも無い黒服の男。
 いやむしろ、彼等の主だったのかもしれない。
 威圧と安堵、二つを同時に兼ね備えた、奇妙な男だった。
 威圧の根源はこの男その物ではない、何だったのかは解らない。

 一つ解るのは、この男がここを統べるに等しい者で、彼はそれに従う者だったと言う事。

 彼には仲間がいる。
 そして同じように、敵もいる事を知る。

 それは例えば、剣呑な空気を纏って踏み込んで来た鎧兜の……高い声からして、多分女。
「昼の一件、裏で手を回したのは貴様と聞いたぞ、アガレス=バサゴ」
 これまで何人も返り打ちにして来たんだもの、雌雄の区別ぐらい付くわ。
「それ、屋内ぐらい外したらどうですか。アスタルテさん」
 女が兜を外す。
 出てきたのは短く刈り込んだ金色の髪。
 彼と並ぶと、どちらが女か解らなくなる。

 人間の争いは威嚇勝負。
 手を出した方が負けらしい。
 そしてどうも、ここでは「生かさず殺さず」がルールらしい。
 血が流れる事は無いけど……私は好きよ、この緊張感。

「もったいない。伸ばしてアップに纏めたら似合うでしょうに」
「……参考にしよう。では本題だ」
 あ、動揺した。私は見逃して無い。

「アレを、子供の悪戯で済ませるつもりか?」
「おや? たかがカンシャク玉でしょうに」
「石畳一つ吹き飛ばすカンシャク玉があるか!!」
「ふーん……現場に居合わせていながら指をくわえて見ていたと」
「……っ」

 やりとりの意味は解らないけど、解る。
 彼の一人舞台が始まった。
 歩く度たなびく青い服を見上げるのは、中々良い眺めだった。

「と言うかあそこ、巡回ルート入ってましたっけ?」
「お、お前こそ……っ」
「ええ、僕も同じです。見て見ぬふりをしていた大人の一人」
 すーっと彼女に詰め寄る。あの距離、彼女の槍じゃかえってやりづらいわね。
「悪い大人の、ちょっとした罪滅ぼし」
 伏せっていて、良い事が一つ。
 途中で彼がこちらに寄り添ってくれる事。彼の舞台の一部になる。
 何故かしら、不思議と心地よい。
「情けない話さ、あの頃なりたくなかった大人に、今なってしまっている」
「……あっさり吐いたな」
 目を据わらせて詰め寄る女も、同様に。

「でも、誰がそれを証言するんです?」
「!?」
 私の翼に腰掛けた彼が足を組み替える。
 組み替えた膝に頬杖をついて……。
「あーあ。結局動いたのは君一人かぁ。何と言うか、守衛隊も堕ちましたねー、マギ」
 何か話を振られたから、適当に相槌を打っておく。
 もうあの子に勝ち目はないわね。
「こちらに来ません? そちらよりは君の信念に添った事が出来ると思うけど」
「なら真っ先に、貴様ら一派を引き落としてくれるわ!」
 ああ、怒った。
 端で見ると解るの。怒ったら負け。彼の勝ちだわ。

「そうそう。我等が魔王様は、そんな気概のある人材を求めているのだよ」
「……貴様の甘言に乗る気は無い。帰らせてもらう」
 今にも黒煙を吐き出しそうだった彼女。
 ガポッと兜被っちゃったわ。まあ、顔を隠したくもなるわね。
「残念だ。でも、僕らの力を借りたかったら何時でもおいで。君なら歓迎するよ」
「誰が、お前などっ!!」
「策士としてではなく、ナイツとして最大限の協力を約束しましょう」
 私から降りて、仰々しく礼。
 いつもの事ね……。
「……フン、その分こっちも協力しろとか言う気だろう?」
「それが、本来理想とする姿だと思いますけど?」
 でも、彼女が来ると彼ちょっと楽しそうなのは何故かしら。
 あれだけ殺気立った相手だと言うのに、彼の目は仲間を見るそれだ。

 そんな日常を繰り返して、あの黒鎧の……グラビモスのドンと再びまみえる日が来た。
 ――良い顔になったじゃないか、お嬢さん。
 その側には赤毛の男……主任とか呼ばれていたかしら?
 私の側には、勿論彼。

 ……そうそう。報告があるの。
 あの卵、今朝がた孵ったわ。
 元気な男の子と女の子。

「ん? どうしたドン。後退り何かして」
 フフ……そう言う事だから、覚悟しといてちょうだいね。