「ぶ……無事……良かった……」
 ギルドナイツ筆頭、ルシフェン=フォン=ファザードがそう呟いて机に突っ伏す。
 そこを見計らったように、入って来たのは青に金縁のノーブルコート。
 纏っているのは白ネコセーレ。
「ルシ様〜詳細はお読みになりましたニャ〜?」
「……セ〜ェ〜レェ〜……」
「ニャッホホホ〜」
 その直後、白ネコと黒コートの熾烈な追い掛けっこがあったのが三日前。
 密輸組織壊滅の報告を受けたのが二日前。

 ……そして今日現在、昼頃。

 砂を敷き詰め固められた闘技場の一角。
 背中に白い泡を乗っけた小さな蒼火竜と、その傍らに立つ蒼髪の少年。
 纏うのは黒いシャツの上に羽織る藤色のベスト、下はジーンズ。
 上腕の半ばから手首まで、ゆったりと覆う袖の隙間から覗くバンテージ。
 腰に提げていた水晶の剣は、闘技場の隅に突き立ててある。
 片割れたる細剣は鍛冶屋。多分治らない。

「ホムラ、ミケ姉に迷惑かけてなかったかー?」
「ぐー」
 小さいと言えど空の王、食物連鎖の頂点。
 それが少年の胸に鼻先を擦り付け、甘えた声を出す。
 少年はそれに応えて体を預ける。蒼髪の隙間から剣聖のピアスが揺れる。
 竜が応えてそっと、自分より遙かに小さな体を支える。

 その背中を、デッキブラシで磨くのは若葉トラ。
「うふふ。やっぱりディ君が居てくれるとやりやすいわぁ」
 鼻歌交じりに背中を磨き、翼を拭くのはミケ姉さん。
 足下には、代謝でこぼれ落ちた鱗等々。
 後で箒でかき集めて、闘技場の貴重な収入になる。

 そこへ……。
「先日は砂漠での任務、ご苦労だった」
 いつもの黒いコートを靡かせて、ナイツ筆頭がやって来た。


   ――――ある休日の過ごし方』―――
            IFを描いて
       

 少年、ディに歓迎の様子はない。
「筆頭……まーた抜け出して来たんですか?」
 それは何も、筆頭が暑苦しい服装でやって来たからではだけではない。
 涼ならミケ姉の掃除の水で十分に事足りる。
「つれないな。ナイツ筆頭がわざわざ労いに来たんだぞ?」
「温暖期の砂漠にほっぽりこんどいて何を今更」
 疲労による所が大きい。
 いかに対策をしていたといえ、いかに短期間で済ませたといえ。
 極端な温度差による消耗は、一日二日で回復する物ではない。

 無い、のだが……。

「丁度いい。少し付き合え」
 そう言って、手の甲をこちらに向けるのは組み手、更に言えば、徒手格闘。
 グローブもない完全な素手。いつぞやのように、黒鋼の手甲が無いだけ良いか。
「あの……労いに来たんすよね……?」
「筆頭直々の手合わせだぞ?」
(暇つぶしに来やがったなコノヤロウ……)
 イリスさんが来たら付き出してやる。そう誓うディだった。

 ホムラ君には端に寄って貰って、中央に立つのは筆頭とディ。
 筆頭はあくまで自然体。棒立ちと言っても良い。
「ま、サービスだ。好きに打ち込んでこい」
「……どーなっても知りませんよ?」
 対するディは、拳を構え、腰を低く落とし、臨戦態勢。
 纏う空気は、重く、冷たく、刺し貫くように。

 傍らで見守るホムラは知ってる。
 こういう時、横から割り込んだら絶対ダメ。
 あの黒い人は、おっかない。

 自然体、棒立ち、隙だらけ故に何処へ滑り込めば良いか解らない。
 ただその精神だけが練り上がり、キリキリと、自身を締め上げるかの如くに収束していく。
 それでも、筆頭の周りは緩やかな空気が流れていく。
 緩やかすぎて、鋭さの入り込む隙がない。

 筆頭が、その裾を軽く翻すだけで、流れが一つ変わるのだ。

「ハッ!!」
 引き絞られた矢が弾かれる。作られた流れに乗って飛ぶ貫手。
 文字通り触れれば切れる一撃はパシンという音と共、手の平で易々と流される。
「おー、怖」
 その余裕を突こうとした後ろ回し蹴りが、僅かな後退で空を切る。
 その勢いのまま鳩尾へ裏拳を叩き込もうとして、ディの視界から黒が消えた。
「まだまだぁっ!!」

 微かな気配を感じた背後へ肘を打ち込もうとして、捕まる。
「……げ」
「ふむ。まあ普及点」
 そのまま腕を取られて、投げられる。

「こっ、のっ!」
 受け身と言わずそのまま着地、跳ね返るように飛びかかる。
 頭部への狙いはフェイク、本命は足下、向こうずねへの蹴り。
 体が浮く、一瞬でも止まるだろう瞬間を狙ったアッパー。

 ぱしん。

 ……読まれていた。止められた。
 拳を引こうにも大きな手の平に捕まって動けない。
 ならばとその腕を掴んで、叩き込もうとした蹴りも止められた。
「これで二死、だな」
 頭突きしてやろうにも、かなり無理がある。
「……っ!」
 振りほどくなどとても出来るような状態ではない。

 今度は軽く突き飛ばされるだけで済んだ。
「フェイクをかけるとき、手首を振る癖がある。足も僅かだが兆候がある」
 筆頭が向こうに居たミケ姉さんを招いて、羽織っていたコートを預ける。
 下は、あまり代わり映えの無い黒い上着とズボン。

 それでも温暖期には涼しいと言うのだから金獅子素材の性能は計り知れない。
(……つーか、アレに打撃ってどれだけ有効なんだ?)
 内心毒突きながら、意識は手首と足首に回る。
 相手は巨大な竜ではない。同じ人間であれば、気付かれたら最後。

 打ち合いは続く、意識は手首と足首、わざと振って、あえてフェイクをかけずに仕掛けてみる。
 ……腕を取られ、鳩尾に強烈な蹴りを貰って吹き飛ばされた。
「痛〜……っ」
「サ、ボ、る、な」
 どんなに軽くともナイツ筆頭。小手先の技など通じない。

 意識しつつの攻撃に対しては、実に緩やかな返しが来る。
 あくまで、受けてやっているという前提の元。

 自尊心に根ざした苛立ちが募る頃だ。
「……つまらんな」
 その「戯れ」は、唐突に始まった。

「状況を限定しようか」
「……は?」
 筆頭がミケ姉さんに剣を持ってくるように言う。
 私は便利屋さんじゃないわよ、とぼやいてた。
「お前の後ろに、守るべき対象が居る」
 渡された剣は左手用。双剣に慣れると、片方がない事に違和感を感じる。

 そして、その感覚に付随している記憶が一つ。
「先に行くよう促したが”彼女”が、先に逃げてくれるとは限らない。むしろ望み薄」
「……どういう、つもりですか?」
 人生五本の指に入る、辛い記憶。
「流石に暴行犯と重ねられては哀しくなるので、こういう設定にした」
 茶化すように語られたくない記憶。
 挑発に使うには、悪質過ぎやしないか?

「追っ手との力量差は明白。ただ幸いかな、相手にお前を殺す気はない」
 そこが、唯一のつけいる隙。
「良いんですか、刃物持たせて」
「ソレで殺されるようなら、私の落ち度だ」
「……そうですか」

 だったら乗ってやろう。
 今は温暖期の昼間。ここは砂の敷き詰められた闘技場。
 思い描くのは蒼い月の晩。ここは木々の茂る森。
 ……けれども、この人に障害物など意味を成さないだろう。むしろ自分に取って邪魔。

 剣は逆手に構える。
 剣聖のピアスを付けた状態の攻撃を素手でいなしていた。
 おそらく、真剣を突きつけたところで結果は変わるまい。
 攻撃に使うのは、グリップから柄にかけてだ。

 ……後ろには彼女が居る。
 多分、有る程度戦えるし負い目も手伝って素直に逃げてはくれないだろう。
 だから……。
 仕掛けに仕掛けて、追い掛けるスキを潰すしかない!
「……フッ!!」
 打突、打撃、蹴り。とにかく攻め続ける他ない。
 迷っている間に、この男は悠々自分をすり抜けていくだろうから!

 とにかく優先すべきは一撃離脱。
 捕まれば一発で気絶させられてゲームオーバー。
 目的は勝つ事じゃない。長引かせる事、生き残る事。
 万に一つの可能性も無いが、彼女の為と一人でも殺めれば共に逃げる資格を失う。

「許せないと思う時ほど、クールに行くものだ」
 そう……あの時そうできたら、この舞台はIFで無かったはずだ。
 IFの舞台でまで、同じ轍を踏むワケにはいかない。

 だから気付いた。

「先日の任務に、予想外のアクシデントがあったから……」
「なんだ……もうバレたのか」
 違う。アンタの嘘が下手なだけだ。
 うたた寝のフリして盗み聞いたアルトとバリーの会話と言う事前情報もあった。
 だからと言って……攻撃の手を緩めるつもりもディには無いが。
「っらああああああーっ!!」

 観衆が居る事など、当の昔に忘れていた。
 まして、その大きな観衆が脅えたように後退った事など。

 最大ダメージより、確実な離脱を考えろ。逆手に構えた剣は盾。
 ……木々の生い茂る森を思い浮かべる。
 小柄な体は、この中を縫って追いつき、纏わり付くには有利だろう。

 ――許せないと思う時ほど、クールに行くものだ。
 ――譲れないと思う時ほど……。

 だから、必要とあれば急所を晒す。
「っ!?」
 狼狽えた。
「セィッ!!」
 その一瞬を突いて振り上げた剣が、その鋭さで黒を牽制し押しのけた。
 チャンスは逃がさない。デタラメで良い、がむしゃらで良い、捕まりさえしなければ……っ!!

「上出来だ」
 追撃のつもりの拳を止められ、捕まる前に引く。
 次の一撃をと思った時、右腰の辺りが、浮いた。
「んな……っ!!」
 掴んでいたのはジーンズの、ポケット部分。
 鎧ならポーチに当たる部分。腰を持ち上げられて体勢が、足下から崩れる。
「覚えておけ。上着は咄嗟に脱がれたり掴まれる事を見越して脆く作られる可能性があるが、下はそうもいかん」
 押し倒されると思ったら後ろは壁で、そのまま叩きつけられた。
 剣の柄を顔面に叩きつけようとして、拳ごと掴み取られる。

「情報とは、コップ一杯の水に溶いた砂のような物だ」
 掴まれた手と手で鍔迫り合いをしている間に、ネタ晴らしの講釈が始まる。
 諦めるには……まだ早いのに!!

「しかるべき方法で濾過、もしくは蒸溜で自ずと真実が見える」
 考えろ、まだ勝負は終わってない。まだ足止めは続いている。
「その記憶を揺さぶる、あるいは弄ぼうとする輩は必ず出てくる」
 考えろ、ここで諦めたら本当の敗北だ。
「許せないと思う相手にこそ冷静になれ。それが最強のカウンターになる」
 考えろ、あの時一緒に逃げられたなら、追い掛けて来たのは誰だ?

 恐らく頼るであろうホムラの翼に追いつける手段を持っていたのは、誰だ?

 答えが、一つ出た。
「……さん……」
「ん?」
 さぁ、喉の調子は大丈夫か?
「……るしふぇんおじさん」
「ブフッっ!?」
 筆頭が盛大に吹いた。
 自分の喉から出た猫なで声にちょっと鳥肌が立った。

「くおらぁっ!!」
 開いてる右手でぶん殴ろうとしたけど飛び退かれた。
 けれど……コレで良い。まだ勝負は続行できる。

 一番の弱みを揺さぶり、あるいは弄ぼうとする者。
 自分がそんな輩の手に落ちた時、一番の被害を被るのがこの男なのだ。
 ナイツ筆頭が……光栄な事、この上ない。

 けれども、筆頭が目に見えて肩を振るわせて居る辺り、
「まったく……」
 向けられる怒気で鳥肌が更新される辺り……。
「お前ら姉弟と来たら……」
 さっきのは、効き過ぎたらしい……。
「どっちも母親そっくりの癖して、中身は父親にばかり似おって……」

 何発か本気の一撃を食らう覚悟をした方が良いかもしれない。
 最後の一言に母への横恋慕を邪推してしまうが、口にしたら多分死ぬ。

 ……「戯れ」は終わった。
 と言うか多分、筆頭の頭からは吹っ飛んでる。
 顔を上げた筆頭の目に暗い物が見えたと思ったその時……。

 ガッ
 ボゥンッ!!

 何かが彼我の中央に音速で尽きたって盛大な砂煙を上げた。
 決して二人を巻き込むレベルではなかったが、それは互いの思考をリセットするのに十分だった。

 砂煙はあっさりと晴れる。
 深々と突き立っていたのは……黒い傘。
 ボウガンに改造された、ダークフリルパラソルと呼ばれるソレだった。

「サー・ディフィーグ、貴方の勝ちです」
 響くのは感情の籠もらぬ、しかし凛とした声。
 その方向はちょうどホムラの傍ら、銀髪のナイツ筆頭副官がいた。
「イ、イリス……」
「つーか、あの距離から投げたのかよ……?」
 何事もなく傘まで歩み寄った彼女は、何食わぬ顔で傘を抜く。
「……戦いが長引いた事で、彼女の罪を減ずるに値する知らせが間に合った」
「は、はい……?」
 全く気付けなかった、戯れの始まりからいたはずなのに。

「な、なあ。そんな知らせが都合良くあるとは限らなくないか……?」
 誉れあるナイツ筆頭は、いい年して負けを認めたくないらしい。
「では援軍の到着でもかまいませんか?」
 誉れ有るナイツ筆頭、首をブンブン横に振る。
「それでは、お早めにお戻り下さい」
 今日は、実力行使に出ることなく帰って行った。

 竜とネコはさっさと部屋に帰ってしまった。
 残されたのは少年と、大人げない大人だけ。
「イリスさんって……結構独断で動きますよね?」
「……ああ見えて、うちで一番感情的な奴だからな」

 思い返せば、あの時戦場への道を示したのも彼女だった。
 留まっていられない、自分の心情を思い計って。
 何よりもその時の「心」に重きを置いて。

 男二人、どれだけ呆けていただろう。
「……所で筆頭」
「何だ?」
 沈黙を破ったのは少年。
「次に似たような事があったら、俺、本気で刃向かうと思います」
「……それで良い。でなければ、青田刈りの意味がない」

「筆頭、青田”買い”です」
「君は対価を受け取った覚えがあるかね?」
 少年、首をふるふると横に振る。
「なら、正しい」