それは母と弟が帰ってくるちょっと前の事。
元々先生が遠方に出ている事の多い診療所は今日も閑古鳥。
「じゃあ、ちょっと出かけてくるね」
「何処に?」
「うん。古い知り合いが帰ってきてるらしいから挨拶に行ってくる。何かあったらハンターズギルドにね」
先生……サイラスが娘に留守を任せてお昼に出かけるのはいつもの事。
今日も、いつものように出かけることにしていた。
「昨日の事なら、今日は来ないさ」
「……ねっちりやっちゃったもんね」
ちょっとだけ現実を見せてしまった娘の言葉に、苦笑い。
昨日の連中は来ないだろう。
今頃は守衛相手に暴れているかもしれないが。
その守衛も来るなら昨日のうちに来ている。
それほど、娘のしでかした事は重大だった。
……気付いたのは、向こうの親を追い返した後だったけど。
確実に、揉み消しに走った馬鹿が居る。
だから今日は、お礼参り……もとい、お礼に伺わせてもらおうかと。
――――『角竜婦人の子供達:中敷き』―――
ハンターズギルドのカウンター裏には、スタッフルームが幾つかある。
名前通りギルドのスタッフが雑務を行ったり昼休みをしていたり。
有事に備えギルドナイツが控えているのもここ。
有事でなくても、たむろしている連中もいるにはいる。
今も一人。
青い騎士装束を纏った白髪の青年。
背負った朱い太刀を引っかけぬようするりと入る。
応じたのは黒い、少しばかり豪華な騎士装束を纏った黒髪の男。
「……アガレスか。昨日は手間をかけたな」
窓際のテーブルでチェス盤を弄んでいたから、アガレスと呼ばれた青年も向かいに座る。
「……ルシさんらしくないですよね」
「ん?」
隣に腰掛けたアガレスは溜息と共に首を振り、そして続ける。
「エイン医師、引き入れないんですか?」
「……子供を巻き込みたくない」
アガレスは言葉を発する前の逡巡を見逃さない。
「角竜婦人の夫、彼自身も相当なやり手ですけど?」
黒髪の男……ルシフェンは何も答えない。
「……それとも、あの家族が貴方の”キング”ですか」
ルシフェンは何も答えない。
濃紺の瞳が行き場を探して、チェス盤にたどり着く。
「この街にいる以上難しいですよ。会わずに済ませるのは」
アガレスがチェスの駒を動かす。
キングの駒を、ルークの横に。
「口八丁はお前だけでじゅーぶん」
「……まあ、いいですけど」
もしそうなら、巻き込まないよう善処するまでですよ。
アガレスがそう言うより先に、ドアを叩く音がする。
続いて響いたのは女性の声。
「マスター、お客様が来ています」
「お。入れろ入れろ」
今度はアガレスがふて腐れる番。
話題を逸らすことが出来てルシフェンはちょっと嬉しそう。
それなりに年期の入ったドアが音もなく開く。
黒い騎士装束を纏った白髪の女性がいた。
アガレスのそれと比べ艶のあるそれは銀髪と呼ぶべきだろうか。
彼女に通されやって来たのは……。
「やあルシ君、久しぶり」
……先ほどの会話の当人、サイラス=エインだった。
固まるルシフェン。固まるアガレス。
サイラスも張り付いたような笑顔。
ルシフェンからアガレスへ、逃げても良いかと眼で問えば笑顔で却下。
「どうかされましたか?」
ただならぬ雰囲気に首をかしげるのは銀髪の女性。
「ソレがさあ、スジャタちゃ……」
「イリスです」
「え? まあいいやイリスちゃん」
「ちょ、ちょっと待て!! そこはスルーしたら駄目だろ!?」
サイラス先生、当たり前のように口にした名を否定されてもお構いなし。
イリスはイリスで肩に手を置かれても特に嫌がる様子も無く。
「今日のメインディッシュ君だしー」
「ディッシュ言うなーっ!!」
ルシフェン、野心家と名高い男が本気で喚く。
「あの……何かあったんですか?」
アガレス、戸惑う癖にその上官が逃げぬよう太刀でしっかり牽制。
「うん。そこのバカたれ、十年前になーんにも言わずに消えちゃってね」
「あー、それは良くありませんねえ」
ルシフェン、逃げる事も叶わずアガレスの太刀で押さえつけられる。
「何も言わず……ですか」
あげくイリスにまで非難がましい視線を送られる始末。
「娘はずーっとドアの前で君を待ってたんだよ。お父さん切ないったらもー」
よよと泣くのが白々しい、わざとらしい。十年分のツケなのかもしれないが。
気がつけばイリスも自分の傍らに立っていて、押さえつける気満々。
「一時期弟のせいなんじゃって思ったらしくてよく泣かせてたよ」
歩み寄るサイラスに、ルシフェンは何も言い返せない。
「昨日も、君の話をしたらちゃんと覚えていたよ」
……十年。
ルシフェンは思う。忘れてくれていれば良かったのにと。
「だって、まだあの頃のリィちゃん二歳じゃ……」
「それでも覚えてたんだなあ。あの子にとっては初恋の相手だったんだろうね」
悔やんだ。
血に汚れた手であの子達に触れたく無かったから逃げた。
けれど本当は、近くで守ってやるべきだったんじゃないかと。
ただ……。
「でも女の子の初恋って、普通父親だよねー?」
指の鳴る音が聞こえた。
「……え゛?」
気付けばアガレスとイリスが両肩を固定している。
「ま、あの日何があったかは察しが付くし、娘に触れたくないというならその意は汲もう」
目の前の医者、笑顔、それも満面の。
笑ってないのは声だけ。
「むしろ僕の目が黒いうちは、指一本触れさせんわ」
即座に据わる眼。吊り上がる口の端。
「あああ、あの、これから、俺は、どう、なるんで……」
「あ、ルシさんが”俺”言った」
「自業自得ですね」
孤立無援。
ここで騒ぐのは良くあることだから人は多分来ない。
「えーっとね、うつ伏せお願いできる」
「はーい」
「ランス使いはここが弱かったりするんだよね」
「勉強させていただきます」
「ちょ、やめっ……アガレスまでーっ!!」
ルシフェン=フォン=ファザード二十八歳。
父の嫉妬、十年分の重みを知る。
そしてその日の内に、悪巧みの場所を大老殿の裏にうつしたんだそうな。