時は1304年、寒冷期の初め頃。
 リィは小さな診療所――自宅裏手の倉庫にいた。
 倉庫である故、日の光は殆ど射さない。

 天窓があるにはあるが、押し込められた荷物のお陰であまり意味を成さない。
 今腰掛けている木箱だって、中身がなんなのかは解らない。

 今から大体、三十分は前だろうか。
 いつも弟をいじめていた連中に「本物の」小樽爆弾を投げて来た。

 リィとて、リスクの大きさは承知していたし、何より芸がない。
 ただ……連中が弟の生死で賭けを始めたあたりからだったろうか。

――なら、弟を殺したのは君たちだ。

 砕け散った石畳。本気で青ざめる連中。
 虚仮威し用のかんしゃく玉を幾つか投げつけた気がする。

 この倉庫に逃げ込んだのは自分の意志。
 あの父とて、笑って済ませてはくれないだろうから。

 黙って叱られるつもりも、脅えて待つつもりも毛頭無い。
 父を迎え撃つには準備が要った。


   ――――『角竜婦人の子供達:裏』―――

  
 寒冷期始め頃。
 砂漠の中にあって日の光遮る岩場、冷たい地下水の流れる川辺。
 炎天下の砂漠にあってそこだけは涼やかな空気が流れていた。

 そこに噎せ返る血の臭いは、川辺に転がるアプケロス数体分。
 そのど真ん中に大の字で寝そべるボロ雑巾……もといディの猟果。

 最初の一匹相手で脇腹に打撲、尻尾を防いだ盾越しに打撲。
 数匹の群に挑めば、四方八方からボコボコにされるのは当たり前。

 この過酷な環境に譲り合いなど通用しない。
 胸に過ぎる思いは二つ。
 どのみち戦うなら街に居た時だったのかと言う微かな後悔。
 けれども今は、最初の一歩を踏み出せた事の方が大きかった。

 ……「獲物」の、尻尾が切り落とされている事に気付くまでは。 

 砂漠の岩場。その中央にぽつんと立つ岩の影。
 右にはむくれ面でこんがり肉にかじりつく子供。
 左には暗いオーラを漂わせながら凹む母親。

 その間に、ひょんな事からこの親子と狩り場に出ることになった赤い皮鎧の青年。
 名はラウル。姓は無い。

 ラウルが蒼髪の親子の同行を二つ返事で受け入れたのは、好奇心からだった。
 ザイン=エイン。またの名を角竜婦人。
 その名を聞けば多くのハンターが……ギルドナイツまでもが震え上がる。
 恩も仇もある「あの男」に至っては、象徴たる黒角竜にさえ苦手意識をちらつかせる程。
 見てみたいと思った。それに、彼女とのコネは「あの男」をからかうのに良さそうだと。

 しかし、現実はといえば……。
「ね、ねえ、ディ……」
「駄目」
「えうう〜……」
 厳つい黒鎧と裏腹に情けない声を上げるこの人が、その名も猛き角竜婦人と誰が信じよう。
 そろそろ本物よろしく砂に埋まりそうな凹み具合である。

 小さな狩人、初陣に手を出されておかんむり。
 けれどアレをせねば、何時致命傷を受けるか解らなかったのもまた事実。

 ラウルは困っていた。
 少年のプライドと親心、そのどちらに味方しようかと。

 ……丁度同じ頃、ドンドルマの街。
 小さな診療所――自宅裏の倉庫前に立ちつくす白いコートの男が居た。
 名はサイラス=エイン。姉弟の父親。
 彼は、娘がいるだろう倉庫に踏み込めずにいる。

 薄々気付いていながら、見過ごしてしまっていたから。
 二人は、笑い飛ばしながら頑張っていると思っていたから。

 少し考えて、踏み込むことにした。
 嫌なことは考えれば考えるだけ出て来るから。
 
それに、娘のした事は笑って済まされる事ではないと扉に手をかけようとして……。

 バッタン!!

「遅い!」
 父が意を決したその時、娘が蹴り開けたドアで顔面強打。
 痛い。はっきり言って痛い。ハンター兼業してようが痛い。
「……いたの?」
 娘の冷ややかな声が、また染みる。
 それでも倉庫に再度娘を押し込み、木箱の上に座らせたのは父の意地。

 戸を閉めれば、昼なお薄暗い倉庫。
 なのに待ち受けていた娘の目が、嫌な光にてらついた気がする。
 獲物と相対した時の妻が、丁度こんな眼をしていたと思う。

「自分のやった事は、解っているね?」
「アイツらは自分のやった事を解っているのかしら?」
 十二と思えぬような、艶やかな声だった。
 父とてそれで怯むほどヤワではないし、引き下がるわけにもいかない。

「最悪、死ぬ所だったんだぞ」
 父親似と思った眼は、据わると母親のそれによく似ていた。
「……ディは死ぬわ」

 ここで怒鳴ってはいけない。
 押さえつける事は出来ても、解決にはならないから。
 だから、静かに聞くことにした。
「ディが、生き物を殺せると思う? 皮を剥いで肉を切り取れると思う?」
 まくし立てる娘を前に、返す言葉を練り上げながら。

「あのままじゃ、最悪ディが人を殺す。どんな顔でカカシに斬りつけていたか知ってる?」
 ……知らない。自分は薬や手当の方法を教えるのが常だったから。
「そのくせカカシの腕を切り落としてから、脅えて模造剣を抜く事もしなくなった」
 それで良いはずだった。恫喝のために剣を握らせたわけでは無かったから。
「頭から血を流して帰って来て、それでも言うなって泣き付いてきた!」
(……まずいな)
 どうしたらそいつらに一泡吹かせられるか考えている自分がいる。
 見過ごしていた、その負い目も手伝っているとは思うけれども。

「それはディの痛みだ。あの子が望んだわけじゃないだろう?」
「そうよ……私が気にくわないのさね」
 自分の知らぬ所で歯を食いしばっていただろう息子。
 しかし、目の前で口の端を上げる娘の方が重症に思える。

「他人の苦痛を見て何故笑い声を上げるような連中」
 サイラスは思う。十二歳の言動ではないと。
「人畜問わず、他者の苦痛に眉をひそめるのが人間ではないの?」
 暗い目で、艶やかな声で、娘は問う。
 人間、と言う言葉にちらりと龍の影が過ぎって、すぐに打ち消す。

 この子は自分に似たのだ。
 一番、似て欲しくない所が。

「所でリィ」
 娘が次を言う為呼吸を整える前に、サイラスがを開く。
「君は、ディの負けを前提に話をしてないかい?」

 同じ頃、寒冷期にあってなお炎天下の砂漠。
 川の流れからは離れた、それでもまだ涼しい岩場の中。

 ここはラウルが引き受けた討伐目標、ゲネポスと呼ばれる走竜種のたまり場。
 翼の代わりに鋭い爪を、巨体の代わりに数を、火炎の代わりに麻痺毒を備えた黄色い群。
 その大半は、既に向こうで舞う角竜婦人によってなぎ払われていた。
 当初の目的だった彼女はもう、ラウルの関心を引かない。

 今は、麻痺毒にやられて倒れたこの子を守らないといけなかったから。
(まずったかもしれないなあ……)
 動けないまま食われる怖さを説いた。
 ここで片付けねば力ない人々がその犠牲になる事を説いたら涙目で剣を抜いた。
 ……そうやってけしかけたことを、ちょっと後悔した時だ。

 小さな体が、立ち上がる。
「……怖い、もんか……」
 まだ余韻に潤む目に、確かな闘志を滾らせて。
「俺は、ハンターだっ!!」
 剣を振りかざして走る背中に、恐怖の余韻など微塵も無かった。

 横槍を入れようとする無粋な輩を、大砲で打ち落としながら考える。
(負けず嫌いバンザーイ……)
 数刻前までアプケロスを斬れずに泣いていた子供。
 それが今さっき、相手の足の腱を斬りつけた上でトドメとばかり、その心臓を貫いた。

 数を頼みにするとはいえ大人の背丈ほどもある生き物。
 少年は体躯の差に怯むことなく逆手にとった。
 転ばせ、突き刺す。ボーンククリが確実かつ速やかにその命を刈り取っていく。
 代わりににスキは大きく、援護の間に合わなかった一匹に細い肩を裂かれた。

 そして今はその失敗をふまえ、人間で言えば頸動脈に当たる部分を直接狙い始めた。
 武器は新米ハンター御用達。
 強固な鱗を避けても筋肉に阻まれ即死にはほど遠い。
 それを察した少年が再び足狙いに切り替える直前、チラリとこっちを見た。

 向けられた視線に乗せられた信頼。
 ラウルは応えた。もう一匹たりとも撃ち漏らすことはないと。

 急所は首筋だけではない。必殺のタイミングは一つでない。
 スキの大きな二撃必殺が軽快な三連撃に変わる。
 振り下ろされた爪を盾でいなす一方、飛びかかってきたもう一匹の攻撃をかわす。
 まだまだスキは大きいけれど、徐々に洗練されていく少年の動き。

 援護に徹していたラウルに思考する余裕が生まれ、気付く。
(……子供も十分バケモノだ)

 首筋、心臓、麻痺袋への的確な攻撃。恐らくは本で学んだのだろう。
 しかし、それを実戦で出来るかどうかはまた別な話。
 スキも大きく、現に先ほど殺されかけた。
 解るや否や戦術を変え、それでも狙える急所は確実に狙っていく。

 ……数刻前まで、獲物にナイフを突き立てるのさえ戸惑っていた子供がだ。

 知識、訓練、生まれ持った素養?
 そんな要素を考えながら、その一方で思う。

 急所を狙う一撃必殺は、竜より人を狩るのに適している。
 彼はいいナイトになると。

(て、まだ十歳じゃんよ)
 ラウルが狩人でなく本業……ギルドナイツとしての思考に戸惑ったその瞬間。
「はっ!!」
 少年が、飛びかかってきた最後の一匹を返り討ちにしていた。

 そして少年、忘れた頃に噎せ返る血の臭いに顔面蒼白。
 食われないためなのかどうなのか、ゲネポスなど走竜種の死体は、時間が経つと臭うのだ。

 少年の戦い方は失血死を前提にしたもの。
 胴体を両断している母親は言わずもがな。

「ディ君、無理しない方がいいよ。ね?」
「だ、大丈夫……」
 それでもその子は、吐き気を堪え、細い肩を振るわせて言った。
「負けないよ、こんなのに……」

 ……ドンドルマの街、診療所裏の倉庫。
「ディはとっくに負けてるのよ」
 薄暗いそこに、娘の低い声が響いた。

「あの子、出発前日に燃えないゴミ積み上げてた。あの子は何でハンターになりたかったと思う?
 ……真っ先に連想するのは母親に似たこと。
 似て欲しくないのに受け継がれてしまった事その二。
「お父さんの下積み時代の話を聞いたからよ」
 ……場違いなのは承知だが、つい嬉しくなってしまう。
 だからといって、ここで頬を緩めるわけにもいかないが。

「それが蓋を開けてみれば超絶調合オンチ。出発前になんてったと思う?」
 目の前で見た理不尽。
「もう嫌だって」
 それが、娘の憎悪の大本。

「それで、お前が悪い子になるのかい?」
 否定すべきものが見つかった。
「いつか報いが来る」
 娘が笑う。低く笑う。
「そんな日が、何時来るってのさ」
「いつか」
「だとしたら、とっくに手遅れよ」
 その顔に、怒りと失望の色が浮かぶのを見計らって次の言葉。
「僕だって、そんな連中がどうなろうと知った事じゃないさ」
 娘の顔色が変わる。自分は今、どんな顔をしているのだろう。

「でもね……お前に、報いが来た時が怖い」
 娘の前で、したくなかった顔をしてるのだろう。
「それで、勝ち誇られてごらんよ」
 もっとも、娘がサイズの会わぬ悪女の仮面を被るというのなら……。
「最悪ディを人殺しの子にしてしまう」
「!?」
 娘、後退ろうとしてかなわず。
 脅えていると言うより、引かれているけれど誤差の範囲内。

「……きっと、ディも同じ反応をすると思うよ」
「だったら、だったら……」
 娘が泣き出すその前に、抱きしめてやる。
「どうすりゃ良かったって言うのよっ!!」
 その声が、耳を突く。脳より先に胸に刺さるように。
「今まで、支えてあげていたんだろう? それは間違ってない」
「それじゃあ、それじゃあ……」
 追いつかなかった。
 解っている。十二歳の少女一人には重すぎた。
 叶うなら、軽く見てしまったあの日の自分を殴り倒したい。
「ずーっと一人で支えてたら、無理も祟る」

 自分の肩に顔を埋めた娘が鼻声で、それでも皮肉っぽく言った。
「私は、病人?」
「専門外だけどね、看た限り過労といった所かな」
 経験から言って自覚のない患者、我慢する患者が一番手こずる。

 まさか、我が子に言うことになると思わなかった。
「どうして、こんなになるまで黙ってた?」

「だって……」
 鼻混じりの声だった。
「向こうの先生が居ない時にミハイルが倒れて、お父さん、飛んで帰って来たじゃない……」
 胸ぐらを掴む手が、微かに震える。
「ミハイルは止めたんだよ、絶対飛んで帰って来るからって、自分も苦しいのに、止めたんだよ……」
 世話になっていた赤虎が、肝臓を悪くした時の事はよく覚えている。
 ……治療費を渋ることで有名な、強欲貴族との交渉を半ばで打ち切ったから。
「そりゃ……私もディも、それどころじゃないと思ってたけど……でも……」

「母さんには、言わなかったのかい?」
「……言えないよ。ベッドに寄りかかって泣いてるの見たら、言えないよ……」
 知っていた。そこで、見過ごしていた自分が悔しい。

 自分は、どれほどの負担をこの子達に強いて来たのだろう?
 二人の「よい子」に、ずいぶんと甘えてきたと思う。

 この街に来たのは他ならぬ自分の仕事の都合。
 あの温泉村を離れると言った時、泣いて嫌がっていた娘。
 でも街なら「お菓子とネコのお兄ちゃん」に毎日会える。
 それで納得させたのに、その「お兄ちゃん」は、ある時を境に姿を消した。

「苦しい時は言ってくれ。でないと、どんな名医もお手上げだからさ」
 そう言うしかなかった。
 ムシの良い話なのは、百も承知だから、聞いてみた。

「リィは、大丈夫だったのかい」
「……忍耐の種噛んで階段から転げ落ちてみた」
 後悔した。
「犯人でっち上げたら誰も疑わなかった。みんな見て見ぬふ――」

 パシンッ!

 それ以上喋る前に頬を打っていた。
 痛かったろうに、さっきまで泣いていただろうに、それでも娘は笑ってのけた。
「ディに勧めたら、グーで殴られたわ」

 ……その頃、砂漠の岩場を抜けた、正真正銘の砂の海。
 ラウルは思う。
「見ちゃ駄目だ!!」
 そう叫んでこの子の目を覆ったのは、何のためだったっけ?

 視線の先の光景は剣を大上段から振り下ろしたザイン。その背後に黒角竜。

 飛竜の名に恥じぬ翼。鋭い双角の下に光る眼光のソイツ。
 ついさっき、ソイツは竦み上がる幼子を蹴り飛ばそうとばかり駆け寄ってきた。

 突然の闖入者から幼子を守ろうとしたのはラウルも彼女も同じ。
 子供を抱え走り抜けたラウルと、その場で立ち止まったザイン。
 ……十中八九轢かれて、子供にはとても見せられない状況になると思ったのだ。

 この光景は、足の間をすり抜けるにしたってちょっと無理がないかと。

「お母さん、お母さんはっ!?」
 少なくとも、眼をふさがれているディは、ラウルが考えた通りの事になってると思っている。
 この子の顔を覆う手が涙とその他でぐしゃぐしゃになりそうな頃、彼女が剣を仕舞う。

 パチン、と言う小気味良い音。
 砂漠の暴君の体が縦に割れる。
 時を同じくしてラウルの手を逃れたディは……その場でぶっ倒れた。

 吹きこぼれる血やら内蔵やら直視してしまえば仕方ないかもしれない。

 弟達が帰路についたちょうどその頃。
 姉は、診療所の待合室で、外のやりとりを聞いていた。
 そして知る。自分がいかに無謀な戦いを挑んでいたか。

 姉が話した事は二つ。
 弟がコレまでにうけた傷の中でも一際大きな物をいくつか。
 やって来たの親の子が、いじめっ子グループの中心人物であること。

 父の主張はただ一点。
「特に左側頭部の裂傷。当たり所が間違えば、失明も十二分にありうる。しかも同程度の傷が複数」
 万一の為にと知人に取らせたカルテの、この傷は何かと。
 口頭で羅列した怪我は本当。医者が取ったそれは歴とした証拠になると。
「これが子供の遊びなら、娘が責められる言われはありませんね」
 親と真っ向勝負しているように見えたが、青ざめていたのは子供の方。
 自分は手を出さず裏方に回っていた奴。問い詰めても知らぬ存ぜぬだった奴。
 証拠を見せろと言われて、父はそれを取り出した。

 ……見せる前に握りつぶしたカルテは白紙。
 背中越しでも憤怒の形相が容易に浮かぶ。
 けれどもリィは気付いてしまった。
 知り合いが医者とは一言も言っていない。
 家族も知り合いの中にある区分の一つ。
「帰れ!」
 とうとう子供が泣き出した。

 相手を追い払って玄関を開ける父を、リィはまともに見られなかった。

「お父さんがグレた……」
「君の親だよ?」
 父が笑う。皮肉たっぷりに、女性ならきっと艶やかに見えるんだろう。
 この家族の中で、悪い子は自分だけだと思っていたのに。

「なんてね。こうはならないでほしい」
 横にどさっと座り込む音と、大きな溜息。
 寄りかかってきた父を見上げると、見たことのない顔をしていた。
 据わらせた眼で床とも地底とも解らぬどこかを見つめている。
 酷く、疲れているように思えた。

「僕もいつか、同じような相手にやられる日が来るかもしれない」
 肩に乗せられた手を、払えなかった。
 ……怖かったから。

「ディも……いつか戦って死ぬの?」
 報いは訪れる。それを目の当たりにしたから。
 そう言う道だからこそ、行って欲しくなかったのに。

「大丈夫。何も悪い報いばかりじゃないから」
 ……でも、それを誰が報いるというのだろう。
 不安は消えない。

「まだ心配なら、いっそ賭をしようか」
「賭?」

「ディが負けたら、僕は医者を止める」
「駄目!」
 掴みかかったのは殆ど反射。

「お父さんは、自慢の父親でいてくれなきゃ絶っ対駄目!!」
 姉弟揃って風邪を引く時は酷かった。でも、もっと苦しい人を助けに行く父。
 そんな小さなプライドが無ければ、小樽爆弾を相手の頭にぶつけていたかもしれない。
 直前で地面に軌道修正したって言ったら、褒めてくれるだろうか?
 自慢の父親。それだけで頬の緩みを我慢できなくなる、この人は。

「……じゃあ、ここに来る前の村を覚えてるかい?」
「んー……うっすらと」
 ネコと温泉と、お菓子を持って遊びに来た黒い人。
 もう一つ何かあった気がするけど、思い出せない。
「駄目だったら、あの村に帰ろうか?」
「……お菓子とネコの人は?」
 返事がない。
「だったら意味が無いわ」
 その人のことが大好きだったのは、今でも覚えている。

「んで、ディが大丈夫だったらどうするん?」
「リィはトイレ掃除三ヶ月」

 どふっ

 クッションとは名ばかりの物体、父の顔面を直撃。
「どの道この道やん」
「……お前、昔もネコの人にガラガラぶつけててだな……」
「さぁ、記憶にないのう」
 百発百中。避けても当たったそうな

 ……砂漠を抜ける帰りの竜車。
 寝息を立てる母親と、まだちょっと顔色の悪い息子。
 先ほどの光景の余韻がまだ消えないラウル。
「ディ君……」
「何……?」
「お母さんみたくなる必要は無いからね……?」
「解ってるよ……」
 赤の他人だったラウルはともかく、息子にまで比喩と思われていた角竜両断。
 なるほど、確かに誰もが恐れてしかるべし。

 しばし続く沈黙。竜車は砂をさくさく踏みながらコロコロ進む。
 最初に口を開いたのは子供の方。
「ラウルさんは、最初の狩りの時どうだったの?」
「ラウルでいいよ」
 ……そう問われて、考える。
 自分の最初の狩りの相手は、誰だったか。
 正直に答えたら恐がりそうだなと思いつつ……。
「僕の最初は、特別だったから」
 ちょっと影のあるお兄さんを演じて、興味を引かせてみようというのは悪戯心。
 けれどディは一度ぱちくりと瞬きをして……。
「そう、なんだ……」
 それ以上聞かなかった。
 まるで悪いことを尋ねてしまったかのように。
 なんだか見透かされた気がして鳴らない。正直気まずい。

 気まずくて、気まずくて……。
「そ、そうだ! フレンドリスト登録しようか!」
 無理矢理に話のきっかけを作るしかなかった。

「リスト?」
「うん。ギルドカード出して。最後のページに番号があるでしょ。それをメモするの」
 少年が紙製のカードをポーチの底から引っ張り出した。

 その番号をギルドに提示する事で、その人物が今どこで何をしているのかが解る。
 もちろん、荷物を届けたり手紙を送ることも可能。
 本来は家族が身内の安否を確かめる為の物だが、今は友人同士の連絡が主。
「ラウルさんの、綺麗……」
「ふふふー。マカライト鉱石製でーす」

「僕たち、友達?」
「うん。友達ー」
 ついでに言うなら、ラウルにとってもプライベートでの登録は初めてだった。

 片眼をうっすら開いた母親が微かに笑ったけれど、どちらもそれに気付かなかった。

(……結局、あのひとの言う通りになっちゃった)
 母は不安だった。どんなに稽古を付けても本気で斬りかかれない息子が。
 夜ごとごめんなさいと繰り返してうなされる息子が。
 必要に迫られたら、突っ走る子だと思うよ。
 さり気なく彼女が零した不安に、夫はそう答えた。

 そして、結果はごらんの通り。

 上々だろう。
 友達という、思わぬ拾い物まで付いてきた。
(本当は、もっとすべきことがあったのかしら。それともガッツンとやっちゃえば良かった?)
 けれど、命のやりとりをする世界に連れ込んでしまった小さな罪の意識が痛む。

 ラウルがこれまでの狩りの話をおもしろ可笑しく聞かせている。
 息子が眼を輝かせて、時に息を飲みながらそれを聞いている。
 ……自分には出来ないことだ。
 彼ほど話し上手なら、狩り以外の道も示せたかもしれない。
 ハラハラさせられそうな唯一の記憶は、あまりに現実離れしていて語れない。

 彼は、これからも良き友人でいてくれるだろうか?
 自分では与えられない物を、息子に与えてくれるだろうか?
 受付の子にアレでもナイツだから、安全面は保証すると言われた。
 ……息子が生まれた直後にいなくなった「あの子」の話をしても、それは保証されるだろうか?

「ただいま。お姉ちゃん」

 街に着いたのは翌日の夕方。
 ラウルと別れ、夫と娘の出迎えを受けて街を歩く。
 丁度特売日だったらしいけれど、今夜の分はもう「狩って」あるから必要ない。
 店先に並べられた肉を見て息子が言う。
「あれって、ぜーんぶ生きてたんだよね……」
 ごくごく当たり前のことを知る。
 一番の成果は、やはりそれだろう。
「そうさのう。誰かが狩って来たり農場確保に奔走した結果を頂いてるからのう」
 ……娘が妙にご機嫌なのは、やっぱり姉としては嬉しいのだろうか。

「時に弟や、初陣はいかがなものだったかね?」
 息子は満面の笑みで答える。
「すっげ怖かった」

 ……夫と娘が賭をしていたと知って、げんこつ喰らわせたはまた別な話。

 彼にとって、街がちょっとだけ帰りたい場所になった日。
 それからはこれまで以上に傷だらけで帰って来る事になる。
 けれど、もうそこに涙はない。
 時に鮮やかで、恐ろしく、力強く、命がけな世界。
 駆け抜けて来た熱のままに語るのを、彼女は黙って聞いていた。

 彼は気付くことはないだろう。
 その熱が、彼女の中の氷を柔らかく溶かしていく事には。

 やがて、その心に小さな灯火を点けることも。