遭難二十日目、出合ったハンターが即座にモドリ玉を地面に叩きつけた。
 しかしネコタクがやってくる事はなく、そのハンターは前のめりに突っ伏した。
 俺はここから去った方がいいだろう。でなければ、彼を殺してしまう事になる。

 背を向けた方向から風が吹いてくる。
 これならネコタクアイルー達も緑の煙を嗅ぎつけ、無事に連れ帰ってくれるだろう。

 遭難十六日を過ぎたあたりでこの森を出ることは諦めていた。

   ――――『ク サ ヲ』――――

 俺もハンターだった。
 G級クエストが解放され、解放された新たな狩り場。もちろん俺だって食いついたさ。
 シュレイドに程近い旧密林。コレまでの密林以上に木々が生い茂り視界を閉ざす。
 フルフルの特上皮で作った白いコートが細かい葉っぱに引っかかって鬱陶しい。
 緑色のババコンガともなればこの環境は最大の味方だと気を引き締めた。

 出合った感想は……思ったほど緑じゃなかったな。
 年寄りの白髪を草の汁で染めた感じ。そんな色の大猿がのそのそ歩いてたんだ。
 森の緑が濃すぎて擬態になってないのに、どうも気付いてないようで。
 そいつの無防備な尻に、自慢の大剣を振り下ろしてやったさ。

 あの臭い塊を三方に投げられたり、屁の風圧でぶっ飛んだ時は生きた心地がしなかった。
 痛いわ臭いわで散々。悪戦苦闘、それでも奴を巣へ追い込んだその時だ。
 滝の洞窟を抜け青空の下、木が一本生えてるだけの開けた場所。
 さあ黄ばんだコートの分をどうしてやろうって時だ。

 目の前で、空気がぐにゃりと揺れた気がした。

 だが巣の奥にはババコンガ。錯覚と割り切る事にした。
 鈍重だが一撃の重さは百も承知。
 まして、尻から飛ばすアレを喰らうと精神的にも来るもんがある。
 そのアレを避けようとした俺は、見えない壁にぶちあたった。

 大剣の腹で防いだお陰で大事には至らなかった。
 臭いはついたが、嘆く間も無く飛んできた第二派は華麗にかわす。
 同時にアレの直撃を受けた壁が、本来の紫色を露わにする。

 オオナズチ。霞龍と呼ばれ自在に姿をくらます古龍。
 いてもおかしくない。否定する材料は誰も持ち得ない。
 何万分の一かも解らぬ不幸を嘆くより先、ナズチが大きな口を開いて……。

 べちょっ

 死んだと思った。意識を取り戻した時全く痛みを感じなかったからな。
 コートは薄茶色に汚れていたが、
腕も足も無事。
 ちゃんと両足で地面に立ってる。「アレ」の匂いも、もう無い。剣はどっかいったが。

 ナズチとコンガの挟み撃ち。何万分の一かも解らぬ不幸を切り抜けた幸運を喜んだ。
 手頃な川で汚れだけ落として、キャンプへ向かったんだ。
 それが、本当の不幸の始まりとも知らずにな……。

 キャンプに戻ってみればテントも、支給品ボックスも、何もかも片付けられた後だった。
 きっと、死亡と判断するに足る時間が経過したんだろう。
 最寄りの村まで歩いていこうとして……
俺は遭難者になった
 あの独特の臭いが生理的に駄目だという理由でモドリ玉を持ち込まなかった事を、本気で悔いた。

 最初の問題は食事だった。肉焼きセットなど持ち出さなくなって久しい。
 肉にするべき草食獣もいないし、魚を釣ろうにもミミズ一匹いやしない。
 仕方がないから、食えるかどうかも解らない木の実や、酷い時には木の皮まで囓って生き延びた。

 ……キノコも囓った。ドキドキノコがあったんで余りの素材玉と併せてモドリ玉を作ってみた。
 ネコタクは来なかった。当然だよな。スタッフのアイルーが控えて無いんだから。

 次の問題は睡眠。うかつに眠ると寝首を掻かれる。
 どこで、どう眠ればいいのか解らなかった。
 結局の所、歩き疲れて倒れてしまった。
 ああ、ここで自分は死ぬんだと思った。
 だが、俺は生きて朝を迎えた。
 眠い時に眠れるようになったのは、五日目だ。

 生き物がいない。

 気付いたのは川で体を洗っている時だ。
 こんな鬱蒼とした所を五日も彷徨えば、あるだろう虫さされが一つもない。
 見渡せば水を飲みに来る草食獣の姿も無く、それを狙う肉食獣ももちろんいない。
 川を下りつつ中を覗いてみた、魚一匹いない実に澄んだ川だった。
 
下流に村がある事を期待していたが、岩壁の下に潜られて無理だった。

 木々の実りは豊かで食い物には困らない。安眠を妨げる物もいない。
 しかし俺に森を抜け出す術は無く、俺の声、言葉、一挙一動、答える物は何も無い。
 生命の危機が無いという安堵は最初だけ。
 ありとあらゆる生き物がいない。
 あらゆる生命とぶつかり続けて来たハンターに、それはどれほどの孤独か。

 七日目、耐えきれず俺は叫んだ。森で、川辺で、洞窟で。
 俺はここにいる。ここにいるぞと。答える物も無いのにただただ叫び続けた。
「誰かいるの?」
 でも幸か不幸か、答える者がいた。喜んだ。駆け寄った。抱きしめて、おんおん泣いた。
 助かった。帰れる。けれど、その喜びから解放された俺が見たのは……

 口から泡を吹いて藻掻く、大剣使いの女だった。
 解放すると口を両手で塞ぎ、硬く目を詰むって蹲りだした。爪が食い込む程の力でだ。
 ヤバイと思った。手を外そうと思った。やっと力が緩んだと思った時には、冷たくなってた。
 仲間と思しきガンナーの男が鬼の形相で上げた叫びをよく覚えている。

 ソイツも話を聞いてくれと俺が詰め寄ったとたん、口を塞いで倒れ込んだ。
 うめきつつも仇であろう俺の手を拒みながら、あの女と同じように息絶えた。
 俺は逃げた。

 だってそうだろ。未知の病原菌か何かいるような場所に長々といられるか。
 ……それが大いなる勘違いだったんだろうが。
 その翌日、翌々日と、似たような症状で倒れていくハンター。
 死に目に会う前に逃げ出した。
 だから、会う奴会う奴全員が死んだわけじゃない……はずだ。

 だがこうも連続で死なれると、なんだ、野ざらしにするのは心証が悪かった。
 せめて、覚えている奴だけでも弔おうと思った時に、また一人でくわした。
 何度見ても目の前で藻掻き苦しまれるのは慣れない。
 だけどその時は、逃げようと思ってやめた。
 死なれるのが嫌なら、最初から死なせなけりゃいい。

 悪いと思いつつアイテムポーチに手を付けた。
 そいつは苦しくてそれどころじゃなかったが。
 大量の消臭玉に落陽草がボロボロ。ええい、秘薬とかそう言うのは無いのか!?
 そこに一個、ぽろりとこぼれ落ちたのはモドリ玉。
 輝いて見えたよ。樹海結晶も真っ青なぐらいに。
 躊躇うことなく地面に叩きつけた。わき上がる緑の煙。
 この匂いをネコ共が嗅ぎつけて、俺達をキャンプまで運んでくれる。
 ああ、情けは人のためならず!
 遭難直後は持ち込まなかった我が身を呪ったが、それもコイツと生還できれば万々歳よ!!

 ……ここまで興奮して気付く。
 前にも言ったが、俺はモドリ玉の臭いが生理的に駄目だ。
 ネコに聞いたら、だからこそ信号になるんだニャアとの事だった。その匂いが、無い。
 嫌な予感の的中は、無情に流れていく時が教えてくれた。
 俺の傍らで苦しんでいたハンターが冷たくなり、それでもネコタクは来なかった。
 数分後、ネコタクを押したまま死後硬直してるアイルー達を見つけた。

 この頃から、俺の中には一つの仮説があった。実に、認めがたい仮説が。

 またハンター達がやってきた。四人だ。風下からゆっくり、彼らに気取られないように近づいた。
 会話だけでも盗み聞きできないかと思ったんだ。一つの狩り場にこう立て続けはあり得ないからな。
 聞こえた会話をかいつまむと、下流の村が臭いにやられて悲惨な状況だという。
 調査に出たハンターがいっこうに戻らず、ついにギルドナイツが出張ってきた。
 ……普通の格好でも出てくるんだな。

 そして、およそナイツとは思えない少年が言う。
「何か、臭くね……?」

 最初は認めたくなかったさ。失礼なガキだとか、まさか俺じゃないよなとか思ったさ。
 その時、風向きが変わった。丁度俺の立ち位置が風上になるのと同時、周りの三人が苦しみだした。
 先に口を塞いでいて被害の薄かった少年の判断は、若くてもやはりナイツだった。
 落陽草を挟んだ布に薬を染みこませた即席のマスクを仲間に当てる。
 比較的症状の軽かったもう一人と協力して風上へ逃げる。
 その退路に煙幕が出来るほど消臭玉をばらまく徹底ぶり。

 それはつまり、臭いの元凶が俺と言うことを如実に物語っていたわけだが。

 これで帰るかと思ったらさすがはギルドナイツ。風向きに最大限の注意を払って俺を追って来た。
 俺もまた、風向きに気をつけつつ動向を窺う。仮説が正しいなら死んだ方がマシと思ったからだ。

 結局、ナイツといえども長期の探索は無理だった。いや、俺の方が逃げたんだ。
 あの機転の利く若いのが、残り香にやられていよいよやばくなってきたからな。

 それからも人は来る。風下から様子を窺い、顔をしかめられたら逃げる。そんな日々が続いた。
 ……いつぞやハンターの遺品にあった消臭玉を使ってみたが、結果は同じだった。

 体を洗うのを止めた。服を洗うのも止めた。どうせ取れやしないんだ。
 白いコートはあのババコンガのソレより見事な迷彩になった。
 気がつけば、剃る機会など無かったはずの髭の感覚が無い。
 最後に食事を取ったのはいつだっただろう。
 ……いよいよ、人間には戻れないと思った。

 森の行き止まり。岩山の下に閉じこもって、ただただ朽ち果てるのを待っていた。
 待っているくせに日数を数えて、壁に刻んでいる自分が滑稽だった。

 遭難二十一日目の夜。嵐だった。
 それでこの忌々しい臭いも流れてしまえばいいのに。
 いっそ俺の存在その物も洗い流してくれればいいのに。

 拳を打ち付けた壁が腐って、マカライト鉱石が転げ落ちた。
 綺麗に割れて艶やかな断面。鉱石にまでは見放されて無かったらしい。

 ……それを大事に抱えて、俺は山を登った。
 いっそ全てが腐れ落ちるのを見る前に死のうと思ったんだ。
 そんな俺の前に、舞い降りる存在がいた。

 鋼の甲殻を纏った龍、クシャルダオラ。
 嵐の中心であろう龍が、風を纏ってこっちを見ていた。
 尾の付け根まで広がった翼膜は畳まれ、逃げることも、牙を剥くこともせず。

 ああ、世界で最も偉大な生き物の眷属は異臭など気にせず舞い降りてきた。来てくれた。
 そうか、お前は風の鎧で俺の異臭から身を守っているのか。
 全ての生き物が恐れ身を隠すと言われるお前達の孤独が今の俺にはよく解る。

 良かった。本当に良かった。こうして、俺の前に立てる生き物がいる事が。
 ふと、さっきのマカライト鉱石を思い出す。
 ……目の前にいる鋼の龍の目と同じ色をしていたからだ。

 手にした鉱石の断面に鋼の鼻先が映り込む。
 傾ければ自分の姿は映るだろうが、出来なかった。
 二十日近く彷徨ってるんだ。怖かったんだよ。

 鋼の足が歩み寄る。怖くはなかった。
 囓られようが、引き裂かれようが、吹き飛ばされようが。
 そうして歩み寄ってくれるだけで今の俺にはありがたかった。
 ああ、深い深い蒼い目が、こんなに美しい生き物だったのか。
「これが、欲しいのか?」
 数日ぶりに発した人の言葉。答えるように風の鎧が消える。
 自分が受け入れられたようで嬉しかった。

 ……。

 次の瞬間には、崖の下に向かって、何かげーげーしている鋼龍の姿が目の前にあった。
 原因は俺が嫌というほど知っている。紫の泡が見えた気がした。
 ソイツは俺の方を一回見ると、逃げるように飛び去っていった。

 その後ろ姿を見ながら俺は思う。
 古龍すら耐えきれないこの異臭。
 全く気にならない俺は、一体何だというのか……。