西へ西へと飛ぶ彼の、鼻先を撫でた鉱石の匂いは砂一粒。
 惹かれた先は砂の海。ふらりふらりと降りて行く。

 昼間のそこは灼熱の炎天下。
 光を遮る雲は無く、砂の海からの照り返し。
 明るいのには慣れていたと思ったけど、ここのは今までの比ではなく。

 その代わり、夜の砂漠は彼の物。輝く月も、散りばめられた星々も。
 纏った風に乗って流れて舞い上がる砂は、それこそ彼のしもべも同じ。
 少し美味しいかなとも思ったけれど、やっぱり食べた気がしない。

 でも砂の味はそのまま、鉱石の味に繋がった。
 光る鉱石、白い玉。鋼も結晶もたっぷりあった。
 独り占めもかねて砂をかけたら良い感じ。

 その間は岩山の中、涼しい涼しい洞窟の地底湖挟んだ向こう側。
 小さな生き物の足では辿り着けない場所を寝床に据えて。

 雨が降ることも少なくて、昼間は湖で泳ぐ大きな魚を眺めて過ごしてた。
 暇な時は池に向かって尻尾をふりふり。
 魚が飛んできたらひょいと引っ込め。昼間はそうして暇つぶし。

 ここを縄張りに選んだのは、土と草の匂いがなかったから。


   ――――『はらぺこどらごん』―――
            南の砂漠


 一見静かな砂の海は、実はとても賑やかだった。
 一本角と二本角。鋏のついた奴もいる。砂を泳ぎ回る奴もいる。
 時々空からやってくるのは角無しピンク。黄色いトカゲが目当てみたい。
 困ったのは美味しそうな水晶もどきをちらつかせる大きな尻尾。
 残った水晶もどきは微妙なお味。うっかり噛んだ尻尾は死ぬほど不味かった。
 紛らわしいコイツは大嫌い。縄張りから叩き出すのに躍起になった。
 この世に血錆より、嫌な物があるなんて。

 ここは灼熱の炎天下。とんがり耳を見つけた時は驚いた。
 雪山の大きな人が出てきやしないかと調べに行ってみたりした。
 小さな広場の岩壁に穴を開けたその場所に、大きいのが入る隙間無し。
 周りの奴らは脅えるばかり。怖いことは無さそうだ。

 帰りにうっかり円い筒を倒したら、粉がこぼれてとんがり耳がにゃふ〜っとなった。
 あまりににゃふ〜な光景に、びっくりしたけどボク知らない。

 空から遠くを見渡せば、人の住処も幾つか見えた。
 ねぐらの洞窟にやってきてトンカンするのがいたけれど、関わらないよう過ごしてた。
 そこから離れる気になれなかった理由は解らない。

 時々鼻をくすぐる砂の匂いが大好きだった。
 少し遠出をすると一本角と二本角の縄張り争いが見えた。
 砂の上をぐるぐる走るヒレを見ていて目を回したりもした。
 水晶もどきは見敵必殺。
 月明かりの下での脱皮は凄く気持ちよかった。
 砂と風に削られて少しずつ丸くなっていく抜け殻を見るのが面白かった。
 やがて砂と一緒になって見つからなくなった。

 ここは本当に賑やかだった。他の龍もやってきた。
 鋼の大きな仲間もやってきた。
 大きな仲間は小さな彼を見ると広い縄張りがあるからもういいやと飛び去った。

 短い鼻先、ふさふさの首周り、炎を纏った蒼い龍もやってきた。
 初めて見る龍と縄張り争いになるのかとドキドキしていた彼だけど……。

 ここがボウヤの家なら余所に行くわ。

 子供扱いされたのが、もの凄ーくショックだった。
 もう立派な大人だと言っても信じてもらえなかった。
 並ぶとまさに親子のような体格差があるので、無理もない話だったけど。

 でも、だからかいくつか教えてくれた。

 二本足で毛の生えたとんがり耳はネコという。
 頭にだけ毛を生やして体を何かで覆った二本足には二ついる。
 自分たちに似た硬い手足で、横に尖った耳で長生きなのは竜人という。
 柔らかい手足で丸い耳のは人間という。たまに凶暴なのがいるよねと言った。
 大きな人の事を尋ねたらそれは竜人の一種で、出合ったのは運が悪かったねと笑われた。

 彼女の去り際に縄張りが欲かったんじゃないと尋ねたらこう返された。

 だってキミと喧嘩するのは賢くないもの。

 蒼いたてがみふさふさあの子。
 姿形は違うけど、とても可愛らしかった。
 ……並ぶと自分より二回りぐらい大きかったけど。

 彼女と並んだその時に、足下の砂が焦げて固まっていたのに彼は気付かなかった。

 そんなある日に事件は起きた。
 泉のほとり、良い気分で寝ていたら、魚が尻尾に食いついた。
 昔に比べて硬くなった殻のお陰で、食いちぎられるのは免れた。
 だけどこれ、次の脱皮でちぎれそう。

 寝直そうにも痛くて痛くて、紛らわせようと遠出をした時ソイツに会った。
 大きな体、上から下まで真っ赤なたてがみ、赤い龍。
 何故だか自分を見つけて唸り出す。
 何があったと尋ねて見れば、チラリと見かけた可愛いあの子、お前が追い返したと言う。

 そこから先は問答無用。真っ赤な龍は火山の生まれ。
 丸くて大きな鎧竜、鋭い鎌の鎌蟹と、そんなの相手に生存競争。
 昼夜で折半してくれるほど甘くない。

 目の前に殺る気満々の赤い龍。
 けれども彼は、自分でも不思議なほど冷静だった。
 理由はよくわからない。自分より大きくて、強そうで、百戦錬磨かもしれない。
 それでも思った。勝てそうだ、と。

 それは一種の本能だったのかもしれない。

 勝てそうだ。赤い龍もそう思っていた。
 炎を弾く風の龍。大きなアイツには為す術無く追い返された。
 だけど目の前のコイツはどうだろう。体は小さい、纏う風もそよ風だ。
 つやつやの黒い甲殻は、今まで縄張り争いをした事が無いからだ。
 だから、挽き潰してしまえば終わりだと思っていた。

 最初の誤算はすぐだった。挨拶代わりの体当たり、小さいコイツはひらりとかわす。
 次が本番と振り向いたその時、目の前を埋め尽くしたのは砂の壁。
 砂は炎を引き裂く風に乗り、顔にかかって焦げ付いた。
 熱さはともかく痛いのだ。首を振る程度じゃ落ちない溶けた砂。
 瞼にこべりついたそれが落ちるかどうか、背中を熱い火が焼いた。

 小さい彼は生まれて初めて、小さい自分で良かったと思った。
 地面に風を吹き付け舞い上がる。
 砂は真っ赤な龍に纏わり付いて、自分は背中に乗っかった。
 爪を引っかけるのに手こずったけど、周囲で爆発があったけど気にしない。

 引っかけるはずの爪はそのまま、真っ赤の背中を引き裂いた。
 赤い血は真っ赤の熱で焼け焦げて、煤も風で飛んでった。
 爪の隙間がべっとりだけど、ここで止まるとやられてしまう。
 だから容赦なく引っ掻いた。
 真っ赤な龍は彼を振り落とそうと転がったけどチャンスとばかり顔面を、角もろとも引き裂いた。
 気がついたら真っ赤な龍は翼もズタズタ、息も絶え絶え、勝負はとっくに付いてた。

 飛ぶ力も無い真っ赤な龍が、目の前でどさっと倒れ込む。
 その時たてがみ全部を真っ赤にしてたのは、別の生き物の血と気付く。
 目を背けたくなるほど痛々しい姿にしたのは自分。
 小さな彼は、自分が強くなっている事に気がついた。

 彼を人間の住む近くまで行かせたのは、小さな自信。

 だけどその方向からしてきた嫌な匂い。
 人間達の住処はまだまだ先、途中にあるオアシスのほとり。

 赤い池の真ん中に、赤毛の娘が浮かんでた。
 赤々と染まった金銀細工と一緒に浮かんでた。
 両脇に、元は円盤だっただろう二つの銀が浮いていた。
 その縁取りは、東のそれとはだいぶ違う。

 足下の砂が赤を吸って、彼の爪先で黒く弾けた。

 食い散らかされた幾つか、人が貴金属と呼ぶ物の類。
 所々焼けこげたそれ。円盤の断面も焦げていた。
 あの真っ赤な龍の仕業だとすぐに思い当たって、考える。

 馬鹿な奴。

 こんなに美味しそうなのが沢山あるのに、全部血錆でダメにした。
 引き裂いたら真っ赤な血が噴き出す事を知らなかったんだろうか。
 あいつらは弱くて小さいけれど、美味しい鋼を持ってくる。
 ……一際凶暴な連中が、だけど。

 昔のひもじい日々を思い出したからだろうか。
 東の国のあの子を思いだしたからだろうか。
 あの真っ赤な龍はもうちょっと、とっちめておけば良かったか?

 まあどうせ、今頃どこかに逃げてるだろう。
 途中まで歩こうと思った彼は、恐ろしい物を見た。

 最初は、流石に傷が深かったのかと思った。
 小さな自分に負けたショックでふて腐れてるのかと思った。
 その横たわった真っ赤の頭の上に、小さな影を見なければ。

 彼が見たのは赤い人間。体を真っ赤に染めた男の子。
 呻きにも似た声に合わせて振り下ろしていたのは、
彼が切り落とした角だった
 その下にあったのは、両目を無くした真っ赤な龍の顔だった。

 男の子が顔を上げた。瞳で揺れる紫の光は美味しそうな、でもどろりとした毒の色。
 赤毛の男の子が駆けてくる。抜けない角の代わりに銀の剣を振りかざし。
 けれども彼は動かない。

 東の連中はもっと早く、もっと複雑に走って来た。
 だからこの子を、砂の上に押さえつけるのは簡単だった。
 切り裂いて血を浴びてしまわないか不安だったけどうまくいった。
 剣の持ち手は自由にした。取り上げてしまえば大人しくなると思ったから。

 銀の剣は、あの鋼の刀ほどでなかった。

 だけどその子は止まらなかった。
 龍にとっては余りに細い腕で、小さな拳を振り上げ続けた。
 爪の中で肩が動いて浅く裂け、赤い物がじんわり染みて黒く弾けた。
 それでもその子は赤い髪を振りかざし、狂ったように叫び続けた。

 だけど彼は、吹き飛ばすことも弾き飛ばす事も、切り裂く事もしなかった。

 その叫び声の中に東で聞いたあの声が混じって、胸の棘を動かした。
 自分は強くなったのだ。これしきの事で狼狽えまいと意地を張る。
 その子の叩く力を無くして腕を掴んだままゆっくり降りるまで、砂漠の向こうにかがり火が見えるまで彼はそうしていた。

 何時の間にやら大きな魚がいなくなって久しいねぐら。
 遠くからトンカントンカン音がする。
 ああまた人間かと、気まぐれ覗きに這いだした。
 トンカントンカン音の方、微かに匂う真っ赤の匂い。
 ひび割れ入った壁の前。いたのはネコ二匹ともう一人、凶暴きわまるあの赤毛。
 赤く染まったヒラヒラから、血錆に混じって、真っ赤な龍の匂いがした。

 赤毛の睨み付ける瞳は夕べと同じ。だけど剣をこちらに向けたまま動かない。
 震える肩がヒラヒラの中の何かとぶつかって音を立てる。
 来ないんだったら、どうしよう。
 一歩、二歩と近づいて、震えて動けない赤毛の前へ。
 やがて、弾かれたように飛びかかろうとしたのを認めて……。

 ぽふっ

 あっさり捕獲。壁のひび割れに押しつけた小さな体は、真っ赤の鱗で少し熱い。
 鋼の腕に突き立てようとした剣を取り上げたら静かになった。
「ひっ……いっ……」
 震える肩、震える目。くっと力を入れると必死に彼の手から抜け出そうとよがる体。
 赤毛から微かに零れるその声は、夕べのそれとは別物だった。
「こ……この、放せっ、放せって!! ……放……放せぇーっ!!」
「ジ、ジオ君を放せなんだニャーッ!!」
 脅えていたネコ一匹飛びついてギィギィ嫌な音を立てるけど、残念ながら痛くも痒くも。
 けれども一応放してやると、何処を見ているのか解らない目をして地面に座り込んでしまった。

 今日は寝直そうと思った頃に、喚き散らす声が聞こえて来たけど気にしない。

 あのオアシスの側にも寄った。並べられた金銀にも娘にも近づかなかった。
 楽しみは別にあったから。

 洞窟の外に出ると、時々あの赤毛が待っている。縄張り狙って待っている。
 瞳に鋭い光を宿して、手にはもっと鋭い剣を握って。
 だから遠慮無く頂いた。赤毛の決死の抵抗空しく、彼はお気楽月夜の散歩。
 そんな事が何度もあった。赤毛は何度も挑んできて、その度剣を取り上げた。

 けれど相手もさるもの、日に日に巧になってきた。
 もうすっかり慣れた物だけど、あの強い光も使うようになってきた。
 小さな光がぺちっと光る事の方が多かったし、上手くいっても効かないと解ってやめたみたい。
 真っ直ぐ走って来なくなった。息を大きく吸い込もうとするのを待つようになった。
 もっとも、駆け寄ってきたら吹き上げた砂にぼふっと埋めて、いただきます。

 いつもの事と油断してたら、鋭い痛みを感じた。角に亀裂が走ってた。
 その時赤毛が握っていたのは鋭く削った真っ赤の牙。
 彼は人間の笑い声を初めて聞いた。

 勝負が終わると、赤毛はネコと一緒に岩山巡ってトンカントンカン。

 いつものように赤毛との縄張り争いが終わったら、赤毛が近くのオアシスで砂を落としてた。
 最近錆が浮いてきて少し痒くなってきたからと真似してみたのが間違いだった。
 いつもはサラサラ落ちる砂、濡れてくっつき気持ちが悪い、おまけに錆はどんどん増えた。
 本当は月の下で気持ちよく脱皮したかったのに、我慢出来なくなったのは真っ昼間。
 洞窟の冷たい風を受けながら、硬くなって行く甲殻の感覚は変わらず気持ちいい。

 それが尻尾でピタリと止まる。尻尾に何か違和感が。
 くるっと振り向き見てみたら、尻尾の中程から先が錆のまま。痒い。
 痒くて痒くて洞窟の壁に尻尾をデタラメに打ち付けたら壁が崩れて日が射した。

 風通しが良くなった洞窟で、彼は寝床を変えて考える。とにかくコレは一大事。
 体を丸めて引っこ抜こうにも、尻尾が曲がらずお手々も頭も届かない。
 次の脱皮で抜けるかどうかも怪しいところ。とにかく痒いが掻けもしない。
 悩み悩んだその晩に、
赤毛とネコがトンカンしだした。
 尻尾の痒い今はこの音さえもうざったい。尻尾を振るとガラガラ鳴るのも凄く嫌。

 けれどもそれで思い出す。確かあそこ、手頃なヒビがなかったか。
 赤毛とネコはさっき来た。今なら誰もいないはず。

 見つけたひび割れは思ったより大きかった。
 差し込んで狭い方に引っかけたら、良い具合に錆のとこだけ収まった。
 後は思いっきり引っ張れば大丈夫だろうと思ったその時、足音一つ。

 振り向いてみれば、入り口で無防備にぼーっと突っ立った赤毛とネコ。
 彼も赤毛もぼーっとしてた。
 けれども赤毛の目つきが段々変わる。
 口の端を吊り上げて、瞳に宿る光は初めて見た時と別の毒。
 シャラリと音を立てて取り出したのは、鋭く削った真っ赤の牙。
「どーやら、お困りのようで」
 ぎょっとした彼、赤毛とネコに強い風を吹き付けて、その拍子に尻尾も抜けた。
 外を窺えば砂に埋もれた赤毛とネコ。元気そうで何よりだ。

 尻尾には白い跡が残った。次の脱皮で消えるだろうと思ってた。
 赤毛の動きがそれから変わる。違う違う、そいつはキリトリ線じゃない。

 そんな日々が長く続いた。剣を噛み砕く前に打ち付けた衝撃で折れる日もあった。
 捉まえようと振り下ろした手を受け止められた事があった。
 弱い弱い力だったけど、それにたじろいだのは、ここに来るのが赤毛だけだったから。
 脱皮も何度かしたけど、角の線も、尻尾の線も消えなかった。
 片手に牙を、片手に小さいけれど懐かしい、東の鋼を構えてくるようになったから。

 ネコより少し大きいだけだった赤毛。今はネコの頭が腰ぐらい。
 髪も少しずつ伸びてって、あの真っ赤のたてがみみたい。
 瞳の光が、まっすぐに、鋭く彼を突き刺すようになった。

 ある日、砕いた鋼が赤毛の片眼を切りつけた。一つだけになってもその光はまだ鋭い。
 それから何度かやってきたけれど、そのうち来なくなった。
 どれだけ来なかったんだろう。食事に困ることは無かったけれど、とてもとても退屈だった。

 余所に行こうかと思ったその頃、トンカン鳴る音に惹かれてねぐらを出た。
 見つけた姿は懐かしかった。ネコより少し大きいぐらい、肩で揃えた短い赤毛。
 瞳は二つ揃ってた。

 だけど近寄ったら逃げられた。
 逃げた癖に入り口からこっちを見ている。一体どうした事だろう?
 ゆっくり近づいてみた。腰を抜かしたその子の瞳は、東のあの子によく似てた。

 何もしてこない小さな赤毛、捕まえて剣を取り上げるのはちょっと気が引けた。
 勝負が出来るようになったのは、以前と同じぐらいの大きさになってから。
 けれどもその視線は少し熱っぽく、憧憬にこそばゆさすら覚えるほど真っ直ぐだった。
 たてがみにならず艶やかに伸びた赤毛は月の下綺麗で、それが少し楽しみだった。

 そんな日が続いたある晩、赤毛が仲間を連れてやってきた。
 最初は鋼が歩いて来ているのかとったけど、中身は人間だと気がついた。
 手にしているのは蒼いひび割れ模様が入った二つの鋼。
 それがシャラリとなった時、ピリリとした何かが背筋を駆けた。

 強い。その予感は正しかった。
 コイツは知っている。自分の動き、癖、早さ、爪を人に振るわない事も。
 そして重たい鋼の鎧は、自分の風ではびくともしない。
 青いひび割れは確実に角を狙う、尻尾を狙う。掠める度に爆ぜる黒い光。
 動きは遅い。だけども何故だか捕まらない。
 チラリと見た赤毛は黙って立ってる。呆けた目でこっちを見てる。
 その隙を突かれて、角に深い亀裂が走った。

 どこか懐かしく楽しかったのは最初だけ。募る不安は命の危機。
 風で煽れないし爪で引っ掻くのは嫌だ。けれども最後は不安が勝った。
 鋭い爪を振り上げた。慌てて避けたその場所目がけて突っ込んだ。
 頭がぶつかった時、鈍い音と一緒に鋼が砕け、ソイツはあっけなく吹っ飛んで動かなくなった。
「爺さんっ!!」
 それ以上何もしなかったのは、赤毛の声にビクッとなったから。

 ソイツに駆け寄った赤毛が、頭の鋼を取り外す。下にあったのは縮れた夕焼け色の髪。
 外した鋼をこっちに向けて振っているけど、食べてもいいの?
 そう思って近づいた。鋼は顔の横に置かれてたから、ソイツの顔は嫌でも見えた。

 ソイツには片眼が無かった。赤毛が破片で斬りつけられたのと同じ方。
 ソイツにはたてがみがあった。夕焼け色は薄くなった赤だった。
 ソイツの顔は、彼にも老いぼれと解るぐらいしわくちゃだった。
 彼は赤毛とソイツを見比べる。記憶の中の赤毛と比べ、そして気付いた。

 人間は、すぐに年老いて死んでしまうんだと言う事。
 欠けてしまった体は、元には戻らないんだという事。

 胸を締め付けられるような何かがあった。
 それ緩めてくれたのは頬と鼻先に触れる、二人の赤毛の掌だった。

 それから後も、彼と赤毛はよく会った。
 いつもの縄張り争いだけど、勝ち負けは全く気にしてない。
 彼はただ待っていた。あの晩の楽しかったという気持ちがまた欲しくなった。
 命が惜しくて飛び出したのに、命を賭けた戦いに生き甲斐を求め出していた。

 でも、満ち足りた日々の終わりは、前触れもなく訪れた。

 やってこない日がまた何日かあった。

 これまでを振り返れば短い日々に、彼は言いようのない不安を覚えた。
 ねぐらを離れ、いつもの場所を飛び立って、空から砂漠を見回した。

 赤毛は彼と初めて出合った場所、オアシスのほとり座ってた。
 あの時は見落としていた石段の上。周りに並べられた幾つかの金銀細工。
 赤毛はその真ん中、青ざめた顔で、妙な匂いのする実を囓ってた。
 その度に顔をしかめるから、決して美味しい物ではないみたい。

 赤毛の胸元や腰を守っているのは真っ赤の鱗。
 手足は錆を落とした尻尾の抜け殻。
 腰に提げられていたのは、あの蒼いひび割れ模様の鋼。

 彼に気付いた赤毛は青ざめた顔のまま、少し肩を振るわせ言った。
「良かった。やっぱりお前じゃなかった」
 人の言葉がわかったら、赤毛がそこから動かない理由も解ったろう。
 やもすれば赤毛をオアシスに叩き落として、自分がそこにいたかもしれない。

「生け贄って言われてもさ、お前が肉食ってるの見たこと無いのに」
 でも、彼にそれを知る由はない。
 真っ赤の鱗があっても凌げないほど今夜は寒いだろうかとか、そんな事を考えていた。
「コレだって成人の儀の時に嫌というほど……」
 震える指先から、妙な匂いのする実が転げて落ちた。
 彼の足下に落ちたから、赤毛の代わりに拾ってやろうとした。
「あ、それは駄」

 バチィッ!!

「キィッ!?」
 彼の牙が触れたとたん、黒く弾けて牙と尻尾をちょっぴり焼いた。
 余りに突然のこと過ぎてちょっと取り乱した。砂に渦が出来ていた。
 落ち着いた跡によくよく見れば、赤毛の横にはその皮山積み。
 ちょっと触れただけで黒く弾ける危険な木の実、
一体幾つ食べたのか。

 そして思う。
 この生き物、食えないどころか毒だった。
 少なくとも、ご飯の真ん中で待ってる奴には気をつけよう。

 一方、その実を拾い上げた赤毛は青ざめたままの口元を少し吊り上げる。
「なるほど、迷信でも無さそうだ」
 その実……竜殺しの実を口に含んだ赤毛の瞳の奥で、毒と鋭さが煌めいた気がした。