昔々ある所に、龍の集う場所がありました。
 そこは人間が見れば宝の山と言うべき鉱山の集まりでした。

 灰色の上を舞うのは鉱石を喰らう鋼の龍。
 皆、少しでもごちそうにありつこうと縄張り争いの日々でした。

 ごちそうにありつけるのは強く、大きく、鋭い風を纏う龍でした。
 だからそうでない龍は、路傍の石で満足するしかありません。

 今日も山の下、谷の底。
 縄張り争いから逃げ出した龍が一頭、岩壁を囓っておりました。
 巻き込まれたら砂煙を噴き上げて、さっさと逃げ出すのが常でした。
 だから彼の食事は石ころばかり、大地の結晶が出たならまだ良い方。
 小さな彼の体はいつも小さな傷だらけ、薄汚れた白でした。

 小さな彼は思いました。
 こんな所にいたらいつか飢えるかお腹を壊してしまう。
 そうでなくても弱くて小さな自分は、いつ縄張り争いで死んでしまうかも解らない。

 だから彼は行くことにしました。
 古くから行ってしまったら戻れないと皆が言う、海の向こうの、その先に。
 ……生きたいと思ったら、逃げ出すしかないと思って。

 それは彼がまだ、ただの龍だった頃のお話。


   ――――『はらぺこどらごん』―――
            東の空へ

 鋼の龍にとって、最初の壁は海でした。
 吹き上げる潮風が彼らの体を重く、脆く錆び付かせてしまうから。
 潮風から身を守ろうにも、風を纏い続けるのだって大変です。
 もっとも、いつも錆はボロボロ崩れるばかりで満足に脱皮もできなかった彼。
 大したことでは無かったようです。

 代わりに降りかかったのが空でした。
 いつも皆の目を盗んで食事に行く彼は、皆が寝静まった昼のうちに動いていたのです。
 山にいた頃は皆の風で集められた雲が遮っていた日の光が、今は容赦なく彼に降り注ぎます。
 彼の呼べる雲などたかが知れたもので、さらに翼を休める場所もありません。
 体が熱くて熱くて仕方なくて、古くからの言いつけを破ったことを後悔しました。

 結局陸地にたどり着いたのは日が沈み、心地よい夜風が翼を撫でる頃でした。
 今空を自由飛べたらさぞ気持ちがいいだろうに、そんな気力も残っていないのです。
 最後の力を振り絞って目の前の山を一つ越えると、雪の積もった洞窟で泥のように眠りこけてしまいました。
 目の前にある美味しそうな水晶よりも、今はただ休みたかったのです。

 もちろん、その水晶はお目覚めと同時にぺろりする予定。
 ここを、新しい巣にしようと決めました。

 ただ今は、新天地でぐっすりと……

 掘っれるっかっにゃー♪ 掘っれるっかっにゃー♪
 ぐっすりと……
 でっかーいおー宝、
掘っれるっかっにゃー♪
 ぐっすりと……

 すてきーなおー宝、にゃんにゃん♪ 掘っれるっかっ……

「ンガァ」
 五月蠅くて眠れやしねえ。

 うっすら差し込む朝日の中見えたのは、二本の足で突っ立っている小さな生き物。
 頭の上のとんがった耳はびくびく震え、短い尻尾もプルプル震え。
 尖った何かを背負っていたけど、それが何かなど彼に知る由も無し。
 とりあえず思った事は、弱そうだ。
 唸れば脅え、立ち上がれば後退る。だから……
「キシャーッ!!」
「ニャァーッ!!」

 ニャー 吼えたニャー
 食べられちゃうニャー 逃げるニャー

 生まれて初めての威嚇は、実に上手くいきました。
 少し追い掛けて外に出て見れば同じような生き物が四方八方。
 雪の中に潜り込んだその場所に残る粉雪、そこかしこで舞い上がって霧のよう。
 それを見送って、ちょっぴりご機嫌のまま寝直す事にしました。

 翌朝、もとい翌日の夕方頃。
 疲れも癒えて目の醒めた彼は、あたりを見て回ることにしました。

 そこは見下ろす限り、今まで暮らしていた山によく似ていました。
 ただ、それが真っ白く雪化粧されていることを除いては。
 一つ残念だったのは、山頂で仲間の抜け殻を見つけたこと。
 自分が最初じゃ、なかったみたい。

 だから山の生き物は知っている。
 風が変わったその時は、怖い龍がやってくる。
 草食肉食隔てなく、息を潜めて隠れろと。
 それは丁度、あの場所にいた頃の彼がそうだったように。

 当の彼はつゆ知らず。立派な抜け殻を見上げて考えた。
 帰ってきたらご一緒なんてとても無理。けれども今はお留守のよう。

 せっかくなので、それまででもそこにいることにしました。
 大きく立派なあの主が、どうしてここにいないのか、考えることもなく……。

 それはともかくとして、住み心地は良好だった。
 少しひび割れを引っ掻けば美味しい鉱石がごろごろと。
 ひび割れさえ見つければいいので、爪をすり減らして鉱脈を探さなくていいのです。
 もちろん、どうしてそんなひび割れがあるかなんて考えてません。
 今まで彼が考えるべき事と言えば、いかに誰もいない所で空腹と嵐をやり過ごすかだったのだから。

 目に付くあの小さい生き物ぐらい。
 なにやらニャーニャー言ってますが、五月蠅いと怒るより先に目の前のごちそう。
 大地の結晶も、ここのはとても美味しいです。
 中でも一番のお気に入りは山の中腹、洞窟の入り口にある大きな氷柱。
 囓ると溶け出た水から、美味しい鉱石の味がするのです。

 ひび割れを探して喉が渇いたら氷柱を囓りに行く。
 小さな生き物は追い散らして、悠々自適の日々を過ごしておりました。
 飢えも外敵も無い、本当に、悠々自適の……。

 ズシン、ズシン……。

 彼がその振動に気付いたのは「何か」の気配を察して氷柱から口を離したその時でした。
 なんでしょう。振動よりも、その気配の方が気になるのです。
 全身をピリピリと、雷雲の中を突っ切ったときのような物に似てるのです。
 何か来る。何か大きくて、すごいものが。

「ふぅ、どっこいしょ……やっぱり回り道するべきだったかのぅ」
 それは、その二本足の生き物は、腰を叩きながら洞窟を通り抜けてきました。
 あの抜け殻の主より大きそうなその生き物は、背負った剣をズシンと下ろして彼を見ます。

 原因不明の恐怖に脅える彼を余所に、大きな生き物は蓄えた髭を揺らして笑います。
「これはまた、こんめぇのが来たもんだ」
 その大きな……竜人族と呼ばれる種族のお爺さんは、構えた剣を山につきたて彼を見ます。
 彼といえば龍に睨まれた猫のよう、逃げることもままならず。
 大きなお爺さんの足下に小さな生き物もいたけれど、それどころじゃありません。

 ズシンっ

 彼はお爺さんが一歩踏み出すと同時、大慌てで逃げ出しました。
 立派な翼のことなど忘れて山の斜面を駆け上がり、山頂を飛び越え山の裏。
 暫く振るえていた彼が、ふと見上げたのはあの抜け殻。
 その主はどうなったのかと考えてしまって……震えて丸まってしまいました。

 幸いなことに、翌晩あの大きな人は来ませんでした。
 明け方が近づき眠りにつく頃、あの小さな生き物がトンカントンカン。
 昨日よりは控えめに、それでもトンカントンカンと。
 文句を言いに外に出れば、あの大きな人がいる。

 彼に知る由もありませんでしたが、大きな人の背負っていた剣は、古くは王と呼ばれる龍の鱗や甲殻を固めて作られた物。
 剣となって尚残るその力は、あらゆる生き物の本能に語りかけるのです。
 曰く、逆らえば命はないと。

 怖いと思いました。小さな彼にとっては尚更です。
 だから昔から行くなと言われてきたんだ。だから誰も帰って来なかったんだ。
 やっと安心して眠れる場所を見つけたと思ったのに、やっと美味しい食事にありつけると思ったのに。

 やっとたどり着いた……新天地なのに。

 月の綺麗なその夜。
 彼は崖の上へ、あの抜け殻の上へ舞い降りました。
 やっと見つけた安住の地だから、
ここで怖いのは、アイツだけだから。

 そこから下を見下ろすと、草がぼうぼうで興味も無かった場所がある。
 小さな幾つかの穴蔵。一際大きな穴蔵。その奥に、アイツがいる。
 風が緩やかな寝息を教えてくれる。口の端が吊り上がる。
 彼は小さく弱かったが故に、気配を押し殺す術に長けていた。

 ふと、穴蔵から少し離れた所に大きな青い鉱石があるのに気付きました。
 月の光を跳ね返すそれは、とても、とても、美味しそうで……。

 結果どうなったか。

 あっちニャー あっち逃げたニャー 爺ちゃんこっちニャー
 これこれそう年寄りをせっつくでないわー

 彼はあっさり見つかった。
 石をぶつけられ、毒煙を当てられ、変な匂いをつけられ大きな人に追い回される。
 小さな生き物を吹き飛ばすのは簡単だけど、数の暴力にはかないません。
 喧嘩を売りに来たのにと抵抗してみればあの剣で横っ面はたかれて、角も翼爪もぽっきり折れた。
 今思えば、翼そのものが折れなかったのは不幸中の幸いでした。

 結局彼は小さな生き物の勝ちどきを背に、巻く尻尾も斬られて逃げ出すハメになりました。
 そうでなければ、あそこで死んでしまっていただろうから。

 もう山にはいられない。彼は方角も定まらぬまま逃げ出しました。
 朝日を真正面に浴びて墜落同然に降りたのは小さな島。
 小さいといっても、今まで住んでいた場所に比べれば、ですが。

 木々生い茂るその島の森の奥。土の匂い、草の匂い。
 その匂いを酷く不愉快に思ったのは、胸の奥に燻る悔しさからでしょうか。
 適当な穴蔵を見つけた彼は、石ころも結晶も構わず噛み砕き、そのまま眠りにつきました。
 夢を見ることもなく、でも一度だけ夜明けの光を見たから、二晩ぐらい眠っていたのでしょうか。

 彼が目を覚ましたのは、風が吹き荒み、雨が打ち付ける日のことでした。
 生えかけた角と尻尾から、再生しかかった翼の甲殻から、微かな痛みを覚えて。
 飛び回る気にもなれず、森に出来た獣道を歩いておりました。

「ひ、ひぇぇ……っ」
 前など見ていなかったので、それに気付くのはその声を聞いた後でした。
 目の前は岩壁、視線を落とすと、ボロ切れを纏った小さな生き物が三匹。
 毛が少ないせいか、あの大きな人に似ています。
 少し大きいけど触れば折れそうなよぼよぼのが一匹。
 よく知らない生き物だけど、余命幾ばくも無さそうな老いぼれなのは一目瞭然でした。
 その横に、つるつるぷにぷにの、大きさは耳の尖った生き物と同じぐらいのが二匹。

 人間の老人と子供でした。

 彼には振るえて動けないそれらを、どうこうする気はありませんでした。
 目の前で振るえて脅えて、身動き一つ取れない姿に満足してしまったから。
 少し鼻先を寄せただけで泣き叫ぶ姿に、満足してしまったから。
 脅えて腰を抜かして座り込む様を見て、満足してしまったから。
 そんな彼の耳が、雨音の変化を捉えます。

 彼が振り向いてみると、鋼をこちらに向ける男がいました。
 結い上げた髪、纏うのは少しくたびれた布の旅装束。
 腰に提げられていたのはさらに何本かの刀。
 広義で言えばこの島、シキ国でサムライと呼ばれる者でした。
「……ほう、白い流れ神とな」

 狭義で言うなら浪人でしたが、男の発した言葉共々彼には関わりの無いこと。
 邪魔が来たとすら思わず振り向いた彼でしたが、興味の対象をすぐそちらに移しました。

 射貫くような眼光が、それはそれは美しく見えたから。
 こちらに向けられた鋼の切っ先よりも、何よりも。

 彼が振り向くとき、尻尾が老人と子供とを軽く押しのけてしまいました。
 怪我をするほど強い力ではありませんでした。
 でも、その撫でる程度の力さえ身をすくませるには十分で……。
「逃げいっ!!」
 その男の声に弾かれてやっと走り出して行きました。
 男と向き合っていた彼が三人と逆に身を竦ませた、そのスキに。

 その睨み合いは縄張り争いに近い物でした。
 生え替わりかけた角で纏える風などたかが知れている。
 だから切っ先を向ける男を油断無く観察し、一挙一動に備える。

 風を叩きつけるために息を吸う彼。
 男が慣れた足取りでやや横に回り込んで突きを放つ。
 鋼龍の弱点である角を寸分の狂い無く狙ったそれを、扇状に吹き上がる土煙が遮った。
「ぬっ……うおっ!?」

 男の誤算は、その龍に目眩ましの癖が付いていたこと。
 男の幸運は、その風に人を引き裂くだけの力が無かった事。
 そして、土煙で爪の狙いが逸れた事。

 代わりに手の平を打ち付けた。

 衝撃に腹をやられ男の吐いた血反吐が宙を舞う。
 何滴かが龍の口元を濡らし、舌がそれを拭う。
 いつでも男を踏みつぶせるだろうにそれをせず、ただ覗き込む龍。
 男は死を覚悟した。それも、ただ殺されるわけではないだろうと。

 男を踏みつけたまま、口元についた血を嘗め取りながら彼は考えていました。
 生暖かいぬめりに錆の味。食べられそうには無さそうだ、と。
 勝負はついた。敗北が決まってなお彼を睨み付ける男の眼光は鋭い。
 その光が、命を奪うだろう最後の一押しを踏み止まらせていました。
 美味しそうな煌めきだけど、先の血を考えるに多分ダメ。

 しょうがないので男が持っていた刀だけ頂くことにしました。
 ちょうど振り上げようとして危なかったので、ぱくっと。
 丁度お腹も空いていたのですが、その鋼の美味しかったこと。

 鋼その物の味も純度の高い物でしたし、薄く、しかし幾層にも重ねられた物。
 硬く、鋭い先端が囓るににつれて徐々に柔らかくなっていく。
 その味わいといったら、踏みつけた男の事も忘れて両手で挟み込んでしまうほど。
 まだ何本かあったと思って顔を上げたその時です。

 乾いた笑いが聞こえて、
「鍛冶屋にはよろしく言うてやる故、流石に残りは許されよ」
 目の前が真っ白になりました。

 同時に目が熱いような痛いような。
 夜闇を見通す目を封じられた彼は大慌て。怖いし訳がわからない。
 突然のことに暴れ回りながら、男の気配が遠のくのを感じていました。

 彼の目がようやく見えるようになった頃には、風も雨も大人しく、空はほんのり白んでいました。
 だから、男の残しただろう赤い点々を辿ることは造作も無い事でした。

 赤い点を辿り、森を抜けて真っ先に見えたのは四角に区切られた金色の海原。
 風に靡くそれが時折日の光を跳ね返して眩しいけれど、日もすっかり昇ってしまったけれど、彼は暫くそれに見入っていました。
 爪の間にさっきの鋼が収まっていた部分を、挟んだまま。

 その晩は月夜。黄金の海原は、マカライトのそれに変わっていました。
 漂う香りに、残念ながらそれは食べ物で無いと解ったけれど。
 その代わり、海原のほとりに光が一つ。

 地面に突き立った刃と、首から胸に丸い鋼をさげた、黒くて長い髪を伸ばした女の子。
 震える肩に併せて瞳の光がゆらゆらゆれる。
 けれども彼の視線は突き立つ鋼に釘付け。揺れるそれより鋭い光。
 泥臭いオマケも沢山あった。それはここで平らげて、鋼は巣でゆっくりと。

 ちらりと娘の方を見たけれど、悪さをする気は無いみたい。
 顔を寄せて喉をぐるぐる鳴らして見たけれど、逃げ出すつもりも無いみたい。
 囓ったオマケが彼の牙とぶつかって、コロコロ鳴ったせいかしら。

 何はともあれ、ここは住み良いところでした。
 手頃な洞窟を見つけて鉱石を囓るのもいいけれど、気が向いたら人里にいく。

 ここには怖い生き物がいなかった。
 たまに乱暴なのがやってくるけど強くもない。
 美味しい鋼を取り上げてしまえばすたこらさっさと逃げていく。

 娘はいつもいました。いつもの事なので、気にも留めなくなりました。
 何も置いてない日もありました。それでも娘はいました。
 その翌日ちょっと外が騒がしかったけど、森の奥に行けば気にならなくなりました。
 あの海原が消えた後、山積みの草を見ていたら、娘にしがみつかれた事がありました。
 アレがこの生き物のご飯みたい。だったら巣に持って帰ればいいのに。

 何もない日が増えてきたある日、娘が首に提げていた物をくれました。
 その頃には娘が震える事も無くなり、こちらをただただ見てました。
 彼も彼で、この不思議な生き物が、少し気になりだしていました。

 そのせいでしょうか。
 年を追うごとにあの海原が小さく荒くなっていく事に、全く気付きませんでした。
 置かれた鋼の味が少しずつ落ちている事にも、全く気付きませんでした。
 それでも、その子と一緒にいる時間が好きでした。

 雪の降りしきる頃、故郷を出て初めて錆の時期になりました。
 洞穴の壁に体をごりごりごりごり。かゆくてかゆくて仕方がない。
 腹立ち紛れに飛び出して、良いことあった試しがない。
 
だから彼は、錆の匂いが大嫌い。

 いつもはごりごりすれば落ちるに、今回何かが違ってた。
 体が痛い体が重い体がきつく締め上げる。
 動く度に体の外と中がごつごつと。背中に妙な違和感が。
 耐えかねて月夜の晩に這いだした。半分ぐらい出てきた所で、体の外が固まった。
 無理に動こうとしたら背中が割れたのを感じた時は、ちょっとわくわくしてました。
 体の外から這い出せる。錆を綺麗に脱ぎ捨てられる。

 ぎちぎち。ぎちぎち……ばっきん。

 初めての脱皮は、ちょっと風変わりな音がした。
 でも錆を脱ぎ捨てた体に染みこむ夜風は、とても心地よい物でした。
 まだ柔らかい体が冷やされて、体が強く、硬くなっていく感覚に酔いしれました。
 柔らかい間にちょっと引っ掻いたけど気にしない。
 その日は歓喜のままに声を上げ、歓喜のままに舞いました。

 でも……彼が洞穴に籠もっている間に、外は大きく変わってました。

 鋼を持った人が沢山やってくるようになりました。
 もちろん食べさせに来てくれるわけではありません。
 けれども錆の落ちた彼に、殆どの人は文字通り歯が立ちませんでした。
 時々強いのがやってきたけど、角に一回斬りつけられれば良い方でした。

 あんまり沢山やってくるものだから、目を焼く光も覚えてしまった。
 あんまり沢山やってくるものだから、海原のほとりにも行かなくなった。

 そんな日が何日も何日も続いたある日のことです。
 森の入り口から声が聞こえてくるのです。
 ぐじぐじひくひく、奇妙な声が。

 それは娘の声でした。
 けれども少し様子が変。目元が真っ赤に腫れ上がり、鼻の下もぼろぼろで。
 最初は間違えたんじゃないかと思ったけれど、少し大きくなったけど、何度も間近で見た顔だから。

 どうした事かと、彼は暫く側にいた。
 顔を上げた彼女の顔色がさっと変わった。
 瞳は肩に併せて震え、徐々に徐々に後退る。
 まるで、ここで初めて出合った老いぼれのように。
 どうしたのかと一歩前へ踏み出したその途端……

 彼女はひっと息を飲んで、森の奥へと逃げてしまいました。

 ……その時の自分の気持ちが何なのか、彼には解りませんでした。
 ただそれは、どんなに鋭い刃より、鋭く胸を突きました。

 彼に知る由はありませんでした。
 沢山の人間が自分に挑んできた理由も。
 彼女が顔をくしゃくしゃにして泣いていた理由も。

 彼女が村でなく、森の奥へ逃げていった理由も。

 美味しい食べ物もあったのに、怖い生き物もいなかったのに。
 胸が痛くて痛くて、耐えかねた彼は島を飛び出しました。
 元々小さく臆病だった彼は西へ西へ、遠くへ遠くへ。

 ほんのり黒い自分の姿を照らし出す、日の光から逃げ出すように。