……ザインが向かってから、雨足が少し弱まった気がする。
「アンタいつまで拗ねてんのよ」
「……お前こそ脛に乗るな」
 ザインの失敗は、隣の部屋に二人がいたのを忘れた事。
 ルシフェンの不幸は、その見送りの一部始終を見てしまった事。
「あらー、こんな美人に乗られて嬉しく無いのー?」
「脛の上乗られて、窓にかじりついてて、面白くもなんともねえ。つか重い。痛い」

 ……こんな形で自分の気持ちに確証を持ってしまった事が情けない。
 ついでに言えば、父が一度手を出そうとしていた人なのが情けない。
 父さえ逃げ出した力はもう見たのに、未だ惹かれている自分が情けない。

 自分も、顔に出てしまいやすいんだろうか。
 否。布団を頭からすっぽり被っている態度が雄弁に語っている。
 しかし、解っていてもこんな顔を人前に晒せるはずもなく。
(……女じゃあるまいし)

「アンタじゃ無理無理。神様フリに行きます宣言しちゃうぐらいだし」
 かつて、龍は神だった。そんな話は聞いたことがある。
「万一負けたらお嫁さんかもしれないけどね」
 それはそれで、龍でも泣くようなことになると思うが……。

 ……話を変えたい。
 この惨めな気持ちを一時でも忘れたい。

「俺達、出る幕無かったのかな……」
 口にしてから後悔する。ますます惨めじゃないか。
 ……そう思ったのは、頭でだけだったのだけれども。

「じゃあ何で、お兄ちゃんは死んじゃったのかな……」
「あ……」
 済まない。
 そう言いたくて手を伸ばしても、この姿勢で届くはずもなく。
「冗談よ」
 ぼやけそうになった視界に映ったスジャタの笑み。
 それが、寂しげだったのは気のせいだったろうか。

 ここに来てから、何もかも上手くいかないのは気のせいか?

   ――――『紅蓮の彼は恋をする』――――
          終幕:明日に捧ぐ名

 雨は彼の纏う焦熱に掻き消える。
 立ちこめる霧は羽ばたきに払われる。
 全てを白く覆う世界に、紅と蒼が、よく映えた。

 しなる尾をかいくぐる。
 迫る牙をすり抜け、振るわれる首をやり過ごす。
 その都度掠める切っ先。
 その都度迸る黒い閃光。
 その都度軋む、蒼穹の刃。

 一撃だって受けるわけにはいかない。
 一撃だって手を抜くわけにはいかない。

 どれだけ走り回っただろう?
 どれだけ切り裂いただろう?
 斬りつけた側から塞がっていく傷。
 解ってはいたが、本当に効いているのかと言う不安はぬぐえない。
 ハンターなら誰もが経験することが、こんなにももどかしい。

 持ち込んだのは強走薬と同グレートを五本ずつ。
 頼るのは少し申し訳ないかもという考えは、最初の五分で消し飛んだ。
 あの傷に、自分一人の力など一つも無い。
 この剣は人の作った物。この鎧は人の作った物。
 この薬とて……調合はやはり人に頼んだ物。何も違わない。

 飲み干した瓶を放る。それを飲み込む火球。
 眼前に迫るそれを細切れに引き裂く。
 十回目ともなればもはや阿吽の呼吸。
「さぁ、ラストダンス」

 真横を過ぎる巨大な腕。
 弾ける火炎から顔を庇う。爆音に混じる羽音。
「……熱っ!」
 腕を上げれば彼方、地を踏みしめる龍がいる。
 こちらを睨み据え、狙いを定める龍がいる。

 地を蹴る龍。真横に走るザイン。着地する巨体が巻き上げる風。
 未だかつて、ここまでセオリー通りの戦いをしたことがあっただろうか?
 そう、セオリー通り。それで彼は……満足するまい。

 振り向いて見たのは、その口腔に火炎滾らせる龍だった。

 龍が己の足下に叩きつけた火炎は彼女を、そして翼をも巻き上げる。
 それに従うように後ろへと飛ぶ彼。首を上げれば彼女は変わらず、そこにいる。

 地を踏みしめる四肢。彼女と並ぶ視線。
 彼女はこのときを狙っている。自らの眼前で四肢を付くその時を。
 それだけは御免被りたい。
 願わくばこの右目には、全てを見届けさせてもらいたい。

 肥大化した左翼の先がチクリと痛む。
 霧の海のその向こう。蒼穹の切っ先に爆ぜる黒。

 そこに揺れ、やがてボロボロと崩れ去るのは己の翼膜。
 彼女の口元が、微かにつり上がるのを見る。
 己の口元がつり上がるのを感じる。
 そこからこぼれる火の熱さを感じる。
 事に気付いた後に走る痛みなど些細な物。
 この熱は、歓喜の具現。

 そうでなくては……!

 手に入らぬなら奪うまで。それは龍の本分。
 得難いのならば、なおさらに。

 爪も牙もかいくぐる。もはや火炎にも本来の力はあるまい。
 彼の咆吼は大地への喚起。従い落ち行く天の炎。
 全て、彼女を避けるように落ちていく。
 その炎そのものが、あまりに頼りないのを見る。

 それでいい。そんな無粋な終わり方など最初から望んでいない。
 地を踏みしめる四肢。こちらを見据え、微動だにせぬ彼女。
 次にしくじれば、あとは打つ手もあるまい。
 同時に気付く。彼女とて、その吐息は浅く、早く。

 次で終わる。
 彼女がしくじれば後は我がものとなるのみ。
 我がしくじれば後は斬り伏せられるのみ。

 ひとたび離れれば視界を埋める霧の海は、もはや何の障害にもならない。
 彼の目には蒼穹が。彼女の目には紅蓮が。
 そこに羽ばたきは無く、白い雲海が全てを埋める。
 互いの視界から互いの輪郭が消える。

 紅蓮と蒼穹。

 ――二体の龍が、跳んだ。

 炎の山のその麓。
 降り続いた雨は唐突に、ピタリと止んだ。

 その時その瞬間を、栄養剤を口に含んだままサイラスは見ていた。
 天を裂く一陣の風。それを教えてくれたのは、地に落ちた陽光。
「終わっ……た?」

 目覚めてから、両の足で立てるようになるには十分な時間が経った。
 サイラスが纏っているのは白い皮鎧。背負うのは繚乱の対弩。

「……どちらに行かれるおつもりで?」
 開いた気配の無い扉の前に、銀髪の少女がいた。
 その後ろに、朱い槍を杖代わりに立つ少年を連れて。
「お姫様の出迎えも行かせてくれないのかい?」
「いやその前に、何でサイがそんなシャキッと立ってるの?」

「栄養剤グレート5本に、これ」
 少年にそう言って、いたずらっぽい笑みを作って、いにしえの秘薬を目の前にぶら下げてみせる。覚悟には、それ相応の準備を持って臨むものだ。
 とはいえ、ベッドの反対側に五個ほど転がっている燃えないゴミに気付かれたら面目ないが。
「ずりぃっ! それってめっちゃくちゃずりぃっ!!」
「なるほどねー。この”バカ”は回復薬グレート一気飲みして一度失神したわよー?」

 炎の山のその奥。
 静まり始めた霧の海。
 寄り添い眠るのは二体の龍。
 片や永久の、片や一時の。

 天を割る風。降り注ぐ陽光に目を覚ましたのは、彼女の方だった。
「……綺麗だね」
 そう呟き、もう目覚めぬ紅蓮の鼻先を撫でる。ほんの少し、愛おしげに。

 最後の最後、この子は飛んだ。
 それは跳躍でなく飛翔。
 力強い羽ばたきに舞い上がる巨体。
 それに彼女も、覚悟を決めた。
 炎を引き裂く剣は、彼が知らず纏っていた気さえも切り裂いた。
 迫る龍へ向き合う、その無謀に賭け、そして勝った。
 切っ先が腹を掠め、膨大な波動を切り裂く感覚の中で、彼女は、確かに聞いた。

 強大な生命を繋ぐ糸が切れる、確かな音を聞いた。

 龍は最期、断末魔の代わりに、寄り添いを求めた。

 目は覚めたが足は動かない。動かすと痛い。無理もない。
 あれだけ長く走り回る事など、今まで無かったろうから。

(凄いなぁ……)
 その呼吸も、鼓動も、止まっているにも関わらず感じる、何か。
 ただ、鍛冶屋を閑散とさせたそれとは全く異質の、心地よい何か。
(このまま寝ちゃいたいけど……)
 火山の焦熱とは明らかに違う。
(サイのとこに、帰らなきゃ……)
 こぼれ落ちる命の、その恩恵の中にいるような。
 一人で、短時間のうちに狩りを終わらせていた彼女には、もっとも相応しい例えを見つけられない。

 晴天。噴煙に覆われていたことも、先ほどまでの豪雨も疑うような。
 眩しいほどの青空に羽ばたく、白。
 陽光を受けて微かに輝くそれに、ともすれば自分にもお迎えが来たかと思ってしまう。
 舞い降りる足と尻尾に、見覚えのある影を見つけ、目を閉じる。
(……キスで目を覚ますのも、悪くないかな)

 それを叶えて貰うには、ギャラリーが少し多すぎたのだが……。

「……やっぱり、やるの?」
 そのギャラリーの一人、スジャタが手渡したのは一振りの、白いナイフ。
 片手剣より若干短いそれの用途は、ハンターなら承知の所。
 狩り取った命は余すことなく使い切ること。それは狩人の心得。
 しかし、このままここに眠らせておきたいような気もする。
「せめて、連れて行ってあげましょう」
 白いナイフは、不思議なほど手に馴染んだ。

 死してなおこぼれ落ちる生命の恩恵。
 もし、魂という物があるなら……。

 ――今日ここに、英雄譚の幕を閉じる。

 幕は下ろされた。

 さて、しかし。

 しかしである。

 役者には次の仕事があり、舞台は次なる幕の為に整えねばならない。
 これから語るのは、下りた幕の向こう側、もう一つの物語。

 場所は沼地のほとり。
 立つのは得物を構え、一点を見据える黒髪の少年。
 青い上着と白い質素な服は老山龍の鎧……暁丸・覇の成れの果て。
 あの一撃で残ったのは腰から下の、青鳥竜と赤鳥竜の防具だけだった。

 それを見守るのは黒子の少女。
 快晴の沼地。風もなく、その水面は少年の心同様さざ波一つ無く……。
「はっ!」
 振り上げた得物の先、金色の輝きが舞う。

 それが少年の背後に落ちようという所、黒子の少女が受け止める。
 それは少女の腕の中でビチビチと抵抗していたが、やがてキャンプに設置された納品BOXへ、ポイ。

「へたくそー」
「うるせ」
 釣り上げた魚を、狙い通りの所に叩き込むのは結構難しい。
 口を尖らせながら少年……ルシフェンは釣り竿に餌を取り付け再び湖面に向き直る。

「ゲリョスが逃げたのはきついなー……」
「何で?」
「農地に毒撒く、不作。治安悪化を防ぐべく俺達は支援にこき使われる」

 ザインが紅龍……ミラバルカンを下してから一ヶ月。
 ゲリョスとグラビモスの対処であるが、ゲリョスはいつの間にか沼地から逃げ出してしまっており、今ある驚異はグラビモスのみ。
 ここを気に入られてしまったのか未だ火山に残る龍の気配か、こればかりは地道に駆逐なり追い返すなりするしかなくなっていた。

「災厄の龍、面目躍如ね」
「そんな躍如いらん」

 二人が同行しているのは、あくまで念のため。
 サイラスは村で怪我人の治療中。
 流石にザインは一人しかいないと言うわけだ。
 二人の同行は、万一の為。

 そしてその万一は、肉焼き中に起きた。

「ザインさん……壊さないで、くれよ?」
「大丈夫大丈夫。歌を覚えてからは壊して無いから」
(……覚える前は壊してたのか)
 ちなみにこの万焼きセットはルシフェンの私物。
 が、角竜婦人に逆らえるはずも無く。

「ふんふん、ふふふ、ふんふん、ふふふ」
 幸い、万焼きセットは無碍に扱われる事はなく、
「らららん、らららん、らららん、らららん、らららら……」
 セットされた肉は徐々にきつね色に、香ばしい匂いをあげて……
「……う゛」
 急に青ざめるザイン。心なしか、体が震えているような。
 いや、セットした肉を持つ手が震え、骨とキットが触れ合いカタカタと音を立て……。
「き……気持ち悪……」
「え、ちょ、待っ……!!」

 ――しばらくお待ちください――

 ――また、お食事中の方は申し訳ありません――

 風のない沼地のほとり。風がないから、匂いも消えない。
「ザ……ザインさん、大丈夫?」
「う……うん……」
 焼いていた肉は、無事「普通の」生焼け肉になったとだけ追記しておく。

 念のためにサイラスに看て貰った所、何かを指折り数えはじめ……。
「……あなた?」
 白くなってぶっ倒れた。
「あなたーっ!?」
 問診してみれば妊娠二ヶ月。
 どう考えても、この村に来る、前。

 涙ながらに謝り倒す妻と、医者としての不甲斐なさを嘆く夫。
 若人二人は逃げを決めた。
 村の集会所の近く、彼らに与えられた一室へ。

 その片隅に置かれているのは老山龍の皮に包まれた荷物。
 そこから今なおこぼれ落ちる、生命の余韻。
 それは生命の粉塵によく似ていた。

 しかし、それ故に「彼」を連れて行けない。
 命が形を作る大事な時期に、傍らに長く置くには、強すぎた。

 ――英雄譚の後日談は、いつも別れか安息で。

「一応アンタが折ったのよ?」
「それを、ギルドの連中に引き渡せってか?」
「……納得」

 青い上着にと白い元・衣服にくるまれた大きな紅い角を、ルシフェンは丁重に断った。

 陰鬱な沼地のほとりとは思えない、木漏れ日の差す森。
 白い竜を連れた少女と、少年騎士。
 伏せていた竜は騎士を見つけると、首だけこちらに向けて出迎えた。

 墓所だったそこは、いつの間にか小さな祭壇になっていた。
 その台座に奉じられているのは紅蓮の翼膜。
 それを大地に縫いつけるのは蒼穹の一対。
 その蒼穹に絡み封じるのは、紋様の錠前。

「……あの時、内通いたろ?」
 何せ眠りこけていた先輩騎士、耐性の無い薬を探す方が困難だった。
 それとも、その当人が狸寝入りしていたのか。
「告発でもしてみる?」
「大長老様をか?」

 封龍槍を持つよう命じた、悪戯っぽい声を忘れるはずもない。
 あの時はしゃくに障った。しかし、その意味をもう知ってる。

「……解ってるじゃない」
 少年騎士と、謎めいた少女。お誂え向きにも程がある。
 しかし、思惑通りに流れないのが世界の常。
「英雄にはなれなかったけどな」
「そうね……」
 全くだ、と言う返事を期待していたのに、スジャタの視線は遙か空。

「でも、それを目的にしちゃいけなかったんだわ」

 風が吹く。木々が揺れる。小枝がさざ波の音を立てる。
 スジャタの素性を探らない事が、いつの間にか暗黙の了解になっている。
 白い竜。見たことの無い型の白い大剣。そして龍を知る者。
 光射す森も相まって、お伽噺の世界に踏み入ってしまいそうになる。
 ……言葉をかわさなければ、ここは現実であることを忘れそうになる。

 ……えっさニャーほいっさニャー……
 ……いっそげっやいっそげー……

 聞こえてきたのはメルヘンチックなネコの声。やはりお伽噺か。
 続いてネコタクが草を分ける音。荷物が鋼の擦れるような音を鳴らす。
 白い竜が、少し怯えたように身震いする。
 それは「荷物」へか、その後にやってきた夫婦か。

「ひょっとして、お邪魔でしたかニャー?」
「ザイン、僕たちも少し森林浴してこようか」
「そうね」
「ちょっと待てーっ!!」

 やはり現実。神秘? 何ですかそれは。

「……グゥ」
 白い雌火竜の片足に革帯。
 彼女が不満げなのは、もう片方に捕まれた紅龍の鱗と甲殻の為。
 量にすれば、鎧一式と少々という所だろうか。
「やっぱり、当分はダメ?」
「うん。どうしても、精神にも影響する物だから……」
 例えそこに、一切の悪意がなかったとしても。
「お子さんが二才ぐらいになるまでは、多分ね」

 白い足に巻かれた革帯に細い手が絡む。
 白い翼が大きく広がる。
「ルシ君」
 四つの銀色が少年騎士を見据える。
「そこいらの腐れ貴族みたいなったら、イリスの餌」
「グァ?」
 羽ばたこうという翼が、ピタリ。
 人語に直すなら「え、私?」と言う所。

「ザインさん達も、男の子の名前は自分で考えてよー」
 改めて羽ばたいた白い女王は、その風圧で見送り三人とネコ多数に尻餅をつかせ舞い上がる。
 三人とネコ達が寝そべって見上げる青空。
 白い翼は一回りすると、東の空へ消えていった。

「……行っちゃった」
「そういや、名前って?」
「んー、スーちゃんと温泉会議でね、女の子は決めちゃった♪」
「参ったよ。他に良いのが浮かばなくなっちゃってね」
「この人に相談したらそのまま眠っちゃうし、ねえ?」

 はて? と、少年騎士が首をかしげたあたりから、なんだか話がおかしくなった。
「でもやっぱりあなたに決めて貰いたいなあー」
「どうかなあ、君の方が結構素直につけてくれると思うんだ」
「でもやっぱり名前って大事なものだと思うから……」

 このバカップルの片割れが黒龍を単身討伐。確かに現実味が無い。

 真横で顔を引きつらせている少年騎士などお構いなし。
 立ちこめるピンクの空気。何時までも終わらないバカップルの会話。
 反対側でニャシシと笑う猫の声。

 少年騎士は、顔を引きつらせたまま思う。
 そんなバカやってると、男は俺がつけちまうぞ。

 ――その翌年。

 ――微かな不安は杞憂に終わり、

 ――皆が信じた奇跡に応え、

 ――沢山のネコ達に祝福されて、

 ――小さな命が一つ。

紅蓮の彼は恋をする________Fin.