辛くも撃退した、と言うところだろうか。
 払った犠牲は、決して小さいと言えない。

 炎の山のその奥、赤茶けた大地に転がる巨大な角。
 その少し手前に、一回り小さな角。
 そしてさら手前、丁度自分の足下。

 折れた蒼穹の刃と、それを受け止めたままの、自分の左眼が転がっていた。

「……ガァ」
 角はともかく、眼球を失っても呆ける余裕があるのは、彼が龍である故。
 そのどれもが、永遠の喪失で無い事に起因するのだろうか。

 彼女と自分の間に立ちはだかったのはそのつがい。
 最初見たとき、竦み上がっていたから最初に蹴散らそうと思った相手だ。
 それが目の前に立ちはだかった。
 解せなかった。
 どちらも脆い生き物で、その番いは大した力も無い事を知っていた。
 弱者が強者のために命を張る。それが解せなかった。

 ……もし自分の目の前に、再びつがいと共に現れたら?
 わき上がるような焦熱が何なのか、彼は知らない。

 そんな彼が何気なく視線を下ろすと……。
「ニャッ!?」
 そこに彼女らより更に小さな生き物がいた。
 どこかで見たような。ああそうだ。最初に彼女らをかっさらった奴だ。
 六匹ほどいるそれらが、折れた角二本を抱え上げていて、残る一匹が蒼穹の刺さった眼球に触れるかどうかの所だった。

「ニ……ニャ、ニャアァ〜……」
 竦み上がって硬直しているそれ。そうそう、それが普通。

 彼は迷った。行かせるか、止めるか。
 龍とはすべからく光り物を、特に、人の作った武具を好む傾向がある。
 まして蒼天を知らぬ彼に、その刃はこの上ない宝だった。

 考える。ニャ〜……。ぎろり。ニャギャ!?
 考える。ニャ〜……。ぎろり。ニャギャ!?
 考える。ニャ〜……。ぎろり。ニャギャ!?
 考える。ニャ〜……。ぎろり。ニャギャ!?

 そうして二時間ほど遊んで、結局行かせることにした。
 彼女が去り際に突きつけた、折れた蒼穹の片割れ。
 そこに、再来の約束を見た気がしたから。

 寝床に向かおうとした彼の鼻先を打ったのは、ただの通り雨のはずだった。

   ――――『紅蓮の彼は恋をする』――――
           第三幕:英雄の代償

 ルシフェンの意識を呼び戻したのは、激しく打ち付ける雨の音。
 バケツをひっくり返した、と言う言葉がしっくりくるような。
(……あの世にも雨って降るんだな)
 確かに覚えている。
 振り下ろされた手が自分の胴を捉えた衝撃。
 老山龍の鎧があっけなく砕ける音。
 肋骨の何本か、もしくは全部が砕けた音。
 腹から喉へ、何かが込み上げてくる感覚。

 つまらない人生だったかもしれない。
 それでも良いと思ったのは、全身を包み込むようなぬくもりからだろうか。
「寝るな〜」
 このまま、ゆっくりゆっくり、目覚めぬ眠りについてもいいと……
「寝たら殺すぞぉ〜?」
「!?」
 飛び起きた瞬間、脇腹の、覚えのない傷が開いた。

 どうやらまだ生きているらしい。
 今は出血死しそうだが。

 悲鳴を上げる体力はなく、すぐ横にいた老医師のおかげでなんとか生還した。
「スぅ〜ジャぁ〜タぁ〜……?」
「ア、アンタの回復力が異常なのよっ!」
 睨んでみれば青ざめていたたスジャタの顔。
 復讐するは我に在り。そんな言葉は、飲み込んでおくことにした。
「肋骨逝ってたし、内蔵やってたし……」
 皮肉を混ぜようとしても、顔色の白さは誤魔化せない。
 被っていたのは、猫だけでは無かったようだ。

 言葉を詰まらせたスジャタに代わり、老医師が告げる。
「まあまず、外のお嬢さんに礼を言うんじゃな」
「……お嬢さん?」
 窓は体を起こさないと覗けない場所にあったが、それでも首を動かして気付いた。
 雨が、窓を打っていない。そこから見える景色に雨雲の灰色は無く、一面の白。
 その、窓枠で四等分された一つから、銀色の瞳が、ぎょろり。
「……いっ!?」
「グキュアァッ!」
 その、どう贔屓目に見ても人間のそれでない瞳の主が、驚いたルシフェンに驚いて声を上げた。
 その反応はさながら、閃光玉の光をモロに見てしまったリオレイアのような。

 にゃにゃにゃっ!
 ぬれるニャー
 もう、踏まれる所だったニャー

「ちょっと、アタシの”妹”にそれは無いんじゃないの?」
「いやー流石に昨日一昨日は大騒ぎだったじゃろうに。ほれ、多分体は起こせると思うが……」

 ゆっくり起こせば、特に痛みを感じずに済んだ。
 念のためにと、殆ど水の味しかしないような回復薬を含む。
 原液で大丈夫だとつっかかったら、栄養失調で死ねると言われた。

 丁度窓は真横。しかし、考えろ、情報を整理しろ。
 白かった。少なくとも人間ではなかった。とりあえずアイルーには好かれてる。
 それについての騒ぎは昨日の時点で収まっている。

 意を決して見た窓の外。
「グ」
「……」
 逞しく広がる翼。その翼爪と首の付け根に茂るように生えた棘。
 そして、顎の下に生えた、授乳期の役割があるという太い棘。
 陸の女王の名を冠する雌火竜リオレイアに違いなかった。
 白いことを除けば。

(黒龍の紅い奴がいたんだ。元々希少種ってカテゴリがあるじゃないか。白いリオレイアぐらいいたって、いたって……)

 諦め半分ベッドに体を投げ出せば、案の定。
「痛〜……っ」

「ほれほれ、無理せんこった。あの子がお前さんの傷に障らぬよう、担架が来るまで片足と尻尾で頑張っておったのに」
 また、老医師の世話になるハメになった少年ナイト。
「ついでに言うとね、アタシがみんな説得してなかったら間に合わなかったかもよ?」
「どうせならサイも一緒に連れてくれれば良かったんじゃがのぉ」

 そういえば、サイとザインは? あの龍は、どうなった?

 ルシフェンが目を覚ましたその頃、その隣の部屋。
 重い鎧を脱ぎ捨て、目の前で昏々と眠る夫を見ながら、ザインは幾度目とも解らぬ溜息をついた。
 一撃必殺。飛竜と相対するにあたって、基本あり得ないそれ。
 それを実行出来るが故にある「弱さ」を、頭では解っていたはずなのに。

 結論から言うと負けた。完全に敗北である。

 ルシフェンが龍の一撃を受け、それを白い飛竜がさらった。
 まだ生きていると叫ぶスジャタを、一緒に行かせた。
 そこから、これまでの疲労と火口の熱という新たな敵が加わった。
 ルシフェンの命のタイムリミット。
 その短い時間に、疲労と言う名の焦熱に押しつぶされた形で。

 敗北の辛酸など、想像の中の物だった故だったのだろうか。
「ザインさん」
「あ……」
 背後にキャップを被ったアメショ柄の看護ネコがいるのに気付かなかった。
「ルシ君、起きましたニャ。特に後遺症も無いそうですニャ」
 その報告に、夫の手を取る。
「そう……。サイ、大丈夫だったって」
 夫は、目を覚ます気配がない。
 必ず目覚めるとあの老医師……夫の師に言われても、不安はぬぐえない。

 あの老医師には荷が重い傷と、既に夫は知っていたのだろう。
 屋根に飛び降りるとは思わなかったけど。
 多分倒れる。前もってそう言われたけれど……。
「それにしても、あんな切り札があるなんて思いませんでしたニャ」

 千里眼の薬と強走薬を混ぜたようなもの。
 以前、飛竜に襲われたキャラバンに遭遇したときに同じ飲み合わせをしていたけれど、それとは多分、似て非なる物。
 時間と効果を限界まで引き延ばすには、ただ混ぜるだけでは無いのだろう。
 ひとときの間極限の集中を得る代償が、今の夫だ。
 そして、服用者自身にも後遺症の危険が大きい。

 倒れた夫にすがりつくザインの横で、老医師は色々教えてくれた。
 それは決意の薬だと。目の前のただ一人を必ず救う、決意の証明。
 そして実地訓練以上に、それに耐えうる体にする為に、ハンターにしたのだと。
 だから眠っているのはせいぜい三日かそこら、後遺症も、きっと無いと。

「サイ……」
 思うとおりの人だった。優しい故に覚悟を固められる人だった。
「そうそう。鍛冶屋の方が呼んでおられましたニャ」
「解ったわ」
 看護ネコに手渡された傘を受け取り、コートを羽織る。
 ならば、自分も彼に応えよう。

 村はずれにある鍛冶屋には、閑散としていた。
 ネコ達がとある素材を持ち込んでから。
 雨の日も手伝ってか薄暗く、炉の炎があるのに薄ら寒く感じる。
 しかし、ザインがここに頼んだのはその素材についてではない。

 炉の手前、金床の上に折れたままの朧火がある。
 その横に腰をかける鍛治氏は、ネコより小さいのではと思わせる竜人の老人。
「やっぱり、無理ですか?」
 期待はしていなかった。その刀身は灰老山龍の角。
 特殊な製法でそれを人間の身長ほどに圧縮し、打ち上げたのはシュレイドの技。
 そのどちらも、ここには無いのだから。

 そんな視線に気付いた老人が、ちょっと不満げに眉を上げる。
「ワシにも西の心得はあるんじゃがの、原因はもっと別のもんじゃ」
 そういって老人が、金床の裏から取り出したのは大きな刀傷の刻まれた龍の目。
 その傷をつけたのは自分、その刃は、眼底に達したときに折れてしまった。
 金色の水晶とも思えるそれは、触れただけで焼けるような……。
 表現する言葉はを見つけられなかったが、強いて言うなら波動のようなものをまだ発している。
 そしてそれは工房の奥、今は老山龍の皮(スジャタが持っていた)に包まれている角からも。

「属性、じゃ」
「属性?」
「左様。龍属性と呼ばれるもんは未だ明確な定義がない。そして……」
 折れた朧火の、切っ先の方を渡される。
 それがちょうどザインの手に触れ……。
「……!」
 背筋から全身に抜けるような、波動。
 先の言葉を借りるなら、龍属性の。

「アンタが使い込んでたおかげでボロボロになったところに、こ奴の硝子体……目玉の中身が染みこんだんじゃろう。もはやこの二つは別物。一本には戻せん」
 使い込んで、の言葉に刺を感じたが受け流す。
 裏で刀匠泣かせと呼ばれている彼女にはいつものこと。
「これ、双剣に打ち直して欲しいの」

 自分で打った刀を、改めて折ってくれと言わずに済んだ。

 鍛冶屋を後にするザイン。
 その背には練習用にと、甲殻虫の素材で作られた双剣が背負われている。
 自分の戦い方が、武器に負担をかけている事は知っていた。
 太刀を折ったのはこれで三度目。その全てが刀身の疲弊に気付かず磨いだ時。
 その都度折れた切っ先に布を巻き、双剣として扱っていた。

 弾かれるには鋭く、彼女の腕をもってしても両断するには及ばない。
 半端に食い込んだところで剣を失う危惧まで相手にできない。
 あの波動をぶつけられるなら、手数で攻めるのが上策。
 それは老山龍の素材から作られた武器が、その老山龍の天敵であるように。
 だが、あくまで主力は太刀だった。だから少しでも慣らしておきたい。

 慣らしておきたかったのだが……。

「誰も手合わせしてくれないってどういうことよぉー?」
 集会所の一角。
 振りの練習と言って稽古人形を木屑に変えてしまっては無理も無い。
 あの龍の事を知るのは村中のネコと鍛冶屋の主。
 そして、長くに渡ってここのハンターを見つめて来た受付嬢と、彼女が選んだ龍に対抗しうるハンター。

 ちなみに白くなってぶっ倒れているのはこの村一番の双剣の使い手で、先ほどザインに軽く手解きをした男。
 多少の下心があったことは、そのショックの大きさと決して無関係ではあるまい。
「……仕方ない。ゲリョスかグラたんで試すか」

 剣が打ち上がるまでの数日、事を知るハンター達の心境は様々だった。

 もしザインが破れたなら、ある者は逃げようと思った。
 またある者は、村を守って死のうと思った。
 そしてある者は、負けるはずがないという楽観視のふりをして諦めた。

 足一本ミンチにされた毒怪鳥を見て、吼える間すら与えず鎧竜を屠るザインを見て。

 勝てない相手ではない。
 彼らとて手練れのハンター。スジャタの説明だけを聞くならばそう思えた。
 しかし、彼らは見てしまっていた。
 鎧を砕かれ、異臭混じりの血反吐を吐く少年を。
 焼けこげ、ボロボロと崩れていく鎧の破片を。

 それでも事の漏洩も無く、万一への備えも着々と進んだ。
 目の前にいる、ザインと言う名の驚異への団結で。

 彼女を本当の意味で信じている者達はいた。
 何かあったとき、彼女に代わりあの龍を討つと決意した者もいた。
 情けない態度を見せる者達へ、苛立つ者もいた。
 しかしその数は余りにも少なく、また、誰も表に出そうとはしなかった。

 何より、彼女が望まなかった。

 それらの思惑に気付かないほど、ザインは鈍くなかった。
 むしろ過剰な程に、恐れている程に敏感であった。
 自分を信じてくれる人達の心遣いに縋り付きたくなる。
 しかし、未だ止まぬ雨の中で彼女は思う。

 泣くまいと。

 己への不信にも、恐れにも。
 そして文字通り痛み入る心遣いにも。
 一度は孤独をくれた力を振るうことに躊躇はない。
 自分を信じてくれる人は、ちゃんといる。その人達の為に。
 そして何より、自分が愛するただ一人の為に。

 雨が降り始めてから六日後。
「ルシ君、寝ちゃってるんだ?」
「グ」
 狩りから戻ったザインを、白いリオレイアが出迎えた。

 夕べやっと触らせてもらえるようになったその甲殻は、少し柔らかい。
 間近で見てやっと解る薄い緑。いわゆる、アルビノという奴らしい。
 スジャタ曰くこの体色故に、兄弟にいじめられている所を拾ったと言う。
 こちらを覗き込む銀色の瞳。そこに、思うところがある。

 この子は白いが故に追われた。
 スジャタは言った。あの龍は飛べないと。
 歪に肥大化した翼。それ故に飛べないと。

 ふと、鎧の肩当てから伸びる角を、強く引っ張られた。
「グー」
「え、何?」
 そのまま引っ張られたのは、鍛冶屋の方向。
「ひょっとして、剣が打ち上がった報告?」
「グ」
 なんだかんだで、ルシ君とスーちゃんは上手くやっているようだ。

 ……あの火口で、ザインの様子がおかしいと気付いたのはいつだろう。
 彼女が地に膝をついたとき、何も考えずに走り出していた。
 ルシフェンの傷は老齢の師匠だけではどうにもならないかもしれない。
 ついさっきまで、往路にあの白い竜が来る事を待ちわびていたのに。

 太刀を持ち上げる力すら無くなった妻。
 その前に立ち、至近距離でボウガンを構える自分。
 まとめてなぎ払うことも、焼き尽くす事も出来たはずだ。

 そうしようとせず、無防備に顔を寄せていた時間は、長かった。
 少なくとも、太刀を振り上げる力を取り戻すには十分だった。

 何故だろう。
 その時見た龍の目から、既視感をぬぐいきれずにいる。
 全身を縛り上げるような威圧など欠片もない、そんな目だった。

 サイラスを揺り起こしたのは妻の声でなく、轟く雷鳴だった。

「ん……」
 一面の闇。そう思った視界に、微かな青が見える。
 焦点の定まらぬ視界を埋める、その色は青。
 時折視界を染める光に、この目が光を失っていないと知る。

 稲光が部屋を照らす。
 窓の外、光の中に伸びる影が、一つ。
 その後に、見間違えようの無い蒼が、一つ。
 たった一つ。

 そこに、あの既視感の答えを見た。

「ザ……どわっ!?」
 窓を開けようとしたら、無様に転げ落ちた。
「ザイン!」
 這い蹲ってでも呼び止めた。
 自分を抱き起こそうと駆け寄ってきた彼女を、抱きしめていた。
 全身泥だらけの自分になどお構いなしに。

 初めて出会った時の、彼女の目。

「大、丈夫なの……?」
 彼女の頬に手を添えようとして、よろめいて、彼女に支えられて。
 抱きしめたつもりなのに、支え無しで立てないのは自分の方。
 それでも、格好だけは自分の足で立っている。
 寝起きの目に活を入れる。無理矢理にでも焦点を定める。
 焦点の定まった視界に、彼女の呆けたような顔が見えた。はっきりと。

 失明など怖くなかった。
 かつて大病を患った事で友人を失い、故郷を追われた。
 その喪失の悔しさに比べれば。
 それでも彼らを責められない、その空しさに比べれば。

「大丈夫。ちゃんと、見えてる」
「ちょっと、待って、薬の後遺症って……目!?」
 ああ、やっぱりあの師匠は肝心なことを話していない。
 いや、話したらこの人はどうなったかな。
「独りで、行く気だったのかい……?」

 一目惚れなど信じていなかった。
 自分が恋をしてしまうまでは。
 そして今、彼女の喪失だけはどうあっても耐えられない自分がいる。
 喪失以上に、奪われることを恐れている自分がいる。

 頬に手を添えた顔が、笑む。添えた手に、角竜の籠手が添えられる。
「正式に、お断りの返事を入れに行くだけよ」
 立ち上がる支えを失って、唇が重なるのは必定だった。
 暖かくて、不器用で、ほんの少し塩辛い、そんな。

 長い口づけ、抱擁。抱きしめるこの手を離したくない。
 きっと彼女もあの龍の目に、同じ物を見ている。
 今この手を離したら、そのまま行ってしまいそうで。
「私の旦那様は、あなただけよ」
 それでも、彼女を止められない。
「……必ず戻って」
「もちろんよ」

 ベッドに戻されながら、情けないと思う。
 両の足で立てるなら、この雨の中、何時間だって待てるのに。

 炎の山のその奥。
 降りしきる雨でその面影の消えた場所。
 地熱は雨を霧に変え、雨は霧を地に押さえ。
 雨が雨を呼び霧の海が漂う、原始の大地がごとき様相。
 彼は独り、そこにいた。

 彼は、この大地の熱が好きだった。
 自分と同じ色に燃えさかるこの大地が。
 その全てを雨が覆い尽くし、上辺にはただの瓦礫の荒野。
 構わなかった。もう一度、彼女が来てくれるのなら。

 何故待ち望むのだろう? 自分にこれだけの深手を負わせた者を。
 あの竜に抱いた闘志ではあり得ない。望むのは決着などではない。
 非力で、脆く、飛べず、その爪も借り物に過ぎぬ生き物。

 夕べであの竜も平らげてしまった。なのに、狩りに出向く間さえ惜しい。
 いっそ眠ってしまおうか。しかし、その間も惜しい。
 そんな彼の耳が、雨音の変化を聞く。
 彼女が、来た。

 霧の海の中、見間違いようの無い蒼を見た。
 長大な刃の代わりに、蒼穹の翼を翻した彼女を。
 その姿に、彼は閃きのような理解を得る。

 彼女は龍だ。

 小さく、脆く、飛べず、それでも力強き龍だ。
 勝ちを収められるならばそれで良し。
 仮にこの命尽きたとしても。
 小さく、脆く、翼すら持たぬ者が自らを下す力を得られるのなら。
 飛ぶことの叶わぬこの身も、きっと無価値ではないのだろうから。

 彼女を迎えるその咆吼は、高く遠く響く、唄だった。

 どこまでも広がるような霧の海のその向こう。
 赤熱を通り越し金色に輝く龍に、彼女は夜明けの太陽を見た。
「……綺麗だね」

 天賦の才と引き替えに果てない孤独の中にいた娘。

 飛べぬ翼に代わり力強い四肢と輝きを得た龍。

 そのどちらもが一挙一動で世界を揺るがす力を持っていながら、

 そのどちらもが歴史に名を残す事は無く、


 また、どちらもそれを望まなかった。
「強いっていうのも、大変よね」