ただ無力でいたくなかった。
 だから彼はその手を取った。

 力だけではどうにもならない。

 それを、誰より解っていながら。

 ――蒼い月の下。
 ――
冷たさが肌を刺すような、夜だった。

 見下ろす先は、荒野のど真ん中にある小さなオアシス。
 焚き火を囲む竜車の一団。
 ホロが赤く染まって見えたのは、多分気のせい。
 あれが、騎士として最初の「獲物」だった。

 ……ちょっとした、些細な仕事だった。
 ……不作を乗り切れると安堵する母親。
 ……小さな子の「ありがとう」が、ちょっと気恥ずかしかった。

 足は震えていないか?
 顔は引きつっていないか?
 手は、しっかり剣を握っているか?

 ……焼き払われた村。一面を染める赤。
 ……転げ落ちた人形の首、首のない子供の死体。
 ……粘りけのある何かが、足に絡まった。

 そのどれもを、その不安を、諫めてくれる人はもういない。
 俺に、騎士のなんたるかを教えてくれた人は。

 ……転んで、振り返って見たのは、その人の……

「恐いか?」
「まさか」
 その惨状に呆けていた俺は、生きてここにいる。
 名も知らぬ同僚に、拾われた形で。

 いつか来るだろうと思っていた日。
 恐くなかったと言えば嘘になる。
 最初の「仕事」が、殲滅戦とは思わなかったけど。

「行くぞ」
「……はい」

   ――『ある少年騎士の顛末』――

 むせ返るような血の臭い。
「ば、化け……っ!」
 響き渡る悲鳴、罵声、怒号、断末魔。
 まとわりつく錆と火薬の臭い。
 蒼い月と、眼下に広がる、赤。

 その中心にいる、自分。

 恐いとかそんな事は、考えられなかった。
 名ばかりの義憤と、復讐に、何もかもを投げ捨てて。
 でなければ……

 自分から、こんな地獄に踏み込もうなんて思わなかったはずだ。

 遠くで蹄の音がする。
 言われるまでもなく転がっていたボウガン手に取る、照準を合わせる。
 悲鳴、引力、ずれた照準は、騎手の首へと合わさった。

 そして俺は、引き金を引く。

      ……人を殺す覚悟とか、そんなことは全く考えていなかった。
      ……ナイトになる。そう決めた時は、あんなに悩んでいたはずなのに。

 ――温暖期の太陽が照らす昼下がり。
 街道を行く竜車の片隅。

 ホロに背を預け眠ろうとしていた彼はしかし、それを許されずにいた。

 ドンドルマとジオ・ワンドレオ。
 この二つの街を結ぶ街道はさほど長くはない。
 とはいえ、そこは内海に沿い、自然の恵みに富む。
 なれば人間のみならず飛竜も訪れるのは自然の理。
 護衛を兼ねるハンターの運賃が免除されるのも、また。

 大剣やランスであればその強固な刀身、あるいは大盾が守りになる。
 飛び道具の類で在れば攻め入られる前に足を止める事ができる。
 懐に入り込むことが前提の武器は、護衛に歓迎されない傾向が強い。

 行商人と思しき男は大丈夫なのかと不安を向ける。
 鍛冶師と思しき男は自分の方がまだ行けると侮蔑を向ける。
 一番堪えたのは、婦人の哀れみを含んだ視線。
 それらの思うところを、彼は知っている。

 今日に限って何故、ただ一人のハンターが双剣使いの、それも子供なのかと。

 彼だって思う。今日に限って何故ただの一人も、自分を知る者がいないのかと。

 巡らせた意識が大きな影を捉える。
 目を開き、顔を上げる。
 期待に満ちた視線を送る竜人の若者と、目が合う。
(……でけぇ鼻)
 次いで背中に背負った壷が目に付いたが、最初に思う事はそれだった。

 残りの道のりも、決して居心地のいいものでなく。

 八つ当たりに近い仕打ちを受けたリオレイア。
 しまいには、眼力だけで逃げていく陸の女王。
 その相手が、一見年端もいかぬ少年なら視線が変わるのも無理はない。
 手の平を返したような態度。その落差は決して心地よい物ではなく。

 結果、彼は街に着くなり、逃げるように港へ駆け出した。
 巨大な壷が、その背中を追いかける。
「……なんすか?」
「いや、君、もしかしてさ……」
 気のよさそうな竜人の若者。
 船旅の道連れは時を同じくして、同じ場所へ向かう、姉の縁者。
 その船の舵を取る、種族こそ解らないが豪快な男も、また。

 そうして辿り着いたそこは、何時潰れてもおかしくない小さな開拓村だった。
 ……二年ほど、前までは。

 心地よい雑音に混ざって聞こえてくるのは声、声、声。
 村を包むのは喧噪。道を行き交うのは行商。
 鮮やかな布で着飾り、賑わう露店。
 迷子の声に目を向ければ、既に誰かが一緒に探している。

 一人のハンターが居着いたことをきっかけに、今はこれほどまでになった。

「……すっげぇな」
 港を降りた彼が、そう呟いたのも、無理はない。
「大したもんだろ?」
 その横で、この村の「元」村長が自慢げに笑むのも、また。
 喧噪に紛れて、まだ二人の来訪に気付かない村。
 そして二人の尋ね人は、まだ狩り場にいるらしい。
「がっはっは! チビスケが帰ってきたら祭りの始まりだ!!」

 その一人のハンター……即ち、彼の姉。

 村を上げての祭りは、密やかにその準備を進めている。
 そんな感謝のやり方もある。
 村長は村長で、やはり後から出てきて驚かすつもりらしい。

 偶然訪れた彼は、その先鋒に据えられた。
 立ち位置は、姉の家。

 この家の主は何も知らず、まだ狩り場にいる。
「……いーのかな?」
「良いですニャ。ご主人が驚く顔が目に浮かぶようですニャーうぷぷぷ」
 エノと名乗った給仕猫が楽しそうに食器を並べる。

 ……給仕一匹にと狩人一人。この部屋は些か広く思えた。

 温暖な気候にくわえ、住民全てが顔見知り以上と言って良いこの村。
 だからこそ、間仕切りの無い広々とした部屋にできるのだろう。
 しかし、その一方で思う。

 らしく無い。

 自分達姉弟が街育ちだから、というわけではなく。
 姉が一切のプライベートスペースを持たぬ事が。
 必ずどこかに何か隠している、そんな人だと思っていたから。

 それでも、帰ってきた姉の表情を見たときは思った。
「何やってんの?」
 いつもの狩りから帰ったと言わんばかりの。
「おい……どんな顔が浮かぶって?」
「……流石ご主人ですニャ」
 やっぱり姉は、姉だった。

 それでも、背負った弓と雌火竜の鎧が随分様になってきたと思う。
 細くなったと思うのは、気のせいだろうか?

「ちょっと、話したい事があってよ」
「そんでわざわざ、こんな辺境くんだりまで?」
 そして、今やただ一人の肉親。
 だから話せる。だから、話さないといけない。
「そのぐらい、大事な話ってこと」
 席を外して貰おうと、給仕の名前を思い出そうとする。
 そうしたら「やはり姉弟ですニャ」と、改めてエノと名乗って外してくれた。
 残ったのは、弓を丁寧にしまう姉と、椅子に腰掛けた彼。

「……ギルドから、ナイトの推薦が来た」

 弟の向かいに着こうとした姉が止まる。
「……マジ?」
「大マジ」
 彼は笑って見せた。
 自分でも信じられないぐらいに、穏やかな顔になっているのが解る。
 代わりに姉の目が、スッ……と鋭くなった。
 それは、これまで彼が見たことが無いような。

「で、アンタどうするのよ?」
 その目は、しっかり彼を見据えて揺るがない。
 それでも、彼の意志は揺るがない。
「……受けるよ」
 これは相談などではなく、報告だった。
 その言葉に、瞳はそのまま、溜息をつく姉。
 彼は思う。ああ、姉でも、こんな顔をするのか、と。

「そのうち来るだろう未来、解ってるよね?」
「ああ……」
 その道が、どんなものかは知っている。
 引き替えに失われるだろう物も。

 それはきっと、人として生きていく上で、大切な何か。
 初めて命を奪う、それでもきっと、狩り場それとは比にならぬ、何か。

 目を細めたまま、呆れたような溜息を吐く姉。
 そして村へ向ける横顔は、彼も見たことの無いそれ。
 そんな表情で、一番痛いところを突いてくるあたりが、やはり姉だった。
「あの頃アンタと組んでた子、辞めたの?」
 悟られまいとした彼の動揺が、揺らぐ瞳が、事の次第を雄弁に物語っていた。
「うん……」

 ……下位の狩りを手伝ってばかりはいられなかった
 ……その間の、ほんの一時の出来事だった。
 ……帰った時には、もはや自分が触れる事さえ許してくれなくなっていた。

 それ以上は何も聞かず、次の話を笑って切り出すのも、やはり姉だった。
「ま、そりゃ私ら人災にゃ散々世話なってるけどさ」

 人災。
 ……両親を奪った病は、それに分類して良い。
 利権争いその他が一役買っていただろうことも二人は知っている。
 結果としてそれは姉の一人立ちを促し、ジャンボの英雄という今がある。
 彼が狩人の道へ足を踏み入れたのさえ、そもそもは苛めに耐えかねた故。
 その都度過激な報復で、姉が周囲から白い目で見られるのに耐えかねた故。
 さらに言うなら、彼が騎士の道に靡いたのも、また。

 ……怯えた瞳。聞かずとも、人の手による傷なのは明らかだった。
 ……取りだしたのは久しく纏っていなかった下位の防具、埃を被っていたオデッセイ。
 ……仇討ちは容易かった。素手で事足りるような連中だった。
 ……結局、彼女の心までは救えず、終わりを告げた関係。

 いつだって、姉弟の転機には人災があった。
 ある時は怠惰。ある時は傲慢。
 差し迫った選択は、何時だって、そうやって突き付けられた。
 それでも、姉は言う。
「……人こそ危険、とは言わないよね?」
 姉と思えぬほど、鋭い瞳で。
「そうだって、言ったら?」

 風が鳴る音。鋼が合わさる音。
 一本の矢が、彼の首筋手前で止まる。
 そこに添えられた、鋼の籠手の指先に。

 姉の目に、笑みはない。
 彼の目に、焦りは無い。
「素っ首叩き落とす」
 矢尻の先を挟む指先。
 辺境の英雄も、彼の命を握るにはほど遠い。
「出来んの?」
 結論から言うと、力の差は歴然。
 それでも、姉は言う。
「その時は、アンタが私の素っ首叩き落とすのよ?」
「……!?」
 その言葉が、彼の目に焦りを落とし込む。

 出来るはずがない。
 それを知る姉だからこその、意地悪な問い。

     ――蒼い月。冷たさが肌を刺すような、蒼い夜。
     ――肺に籠もった熱を、どんなに吐いても吐ききれない。

 蒼い月が、砂漠の彼方を照らしていた。

 俺の放った弾が、寸分の狂いもなく騎手の首を撃ち抜いたのがよく見えた。
 縋り付く手が、痛いほどの悲鳴を上げる。
 その「女」を、俺は迷うことなく切り捨てた。

 ……あっけない。
 もっと苦しむと思ってた。
 もっと躊躇うと思ってた。

 少なくとも、その時までは。

 賑やかなほど響いていた悲鳴はもう聞こえない。
 倒れた馬。転がっている、人間だったモノ。
 蒼い月に照らされた先、その下で、何かが動いたのを見た。

 それを捨て置けば、こんなに苦しむことはなかったのだろうか。
 それを切り捨てようと思ったのは、俺が狂っていたからだったんだろうか。

 ああ……もしそうならば……。
 こんな事で狼狽えるような心も、壊れていれば良かったんだ。

 段々、事の子細が見えてくる。
 あの一撃は、確実に騎手の首を飛ばしていた。
 馬の横には、ボウガンがくくりつけられていた。
 そこに伸びる、あまりにか細い、腕。

 這いだした小さな子供が、慣れた手つきでそれを取る。
 淀みの無い一連の動きは、決して今手に取ったばかりのそれでなく。

 蒼い月が、細い体とやつれた頬を露わにする。
 首の無いそれさえ、果たしてその腕で、手綱が引けただろうか。

 ……俺、知ってたじゃないか。
 とっくに手遅れになった村があるって。だから、上が焦ったんだって。
 でも、それさっ引いたって、アレ、何だ?

 俺、何もかも……知って……。

 飢えて略奪しか生きる術が無くなった人達。
 何の罪も無い人達の生活を踏みにじり、挽き潰していった連中。
 目の前で親、親族、ひょっとしたら兄弟さえ俺が殺してしまった子供。

 ガコン……ッ

 装填音。重い、ヘビィ特有の。

 蒼い月の下で、碧の瞳だけが輝いている。
 真っ直ぐ、ただ、親の仇を取る。それだけの為。
 真っ直ぐ、俺なんかよりずっと、でも……だからこそ、その引き金で人を殺める。

 ……何かが、「ぱららっ」と背を打った。
 一つ、二つ、やがて数え切れなくなる。

 蒼い月は、いつの間にかその姿を消していた。

 手足に絡む。熱を奪う。
 温暖期の荒野にあって、その雨はあまりに冷たかった。
「ハ……ハハ……」

 喉が震えていたのは、そのせいだ。

     ……俺が騎士になったのは、なんの為だった?
     ……俺があの人とした約束は、何だった?

 ――温暖期の夕暮れ。太陽は、足早に形を潜めていく。
 夕日が二人照らしたのは、ほんの一時の事だった。

「姉貴が言うの……それ?」
 彼の首筋手前、矢尻が一つ。
 皮肉の一言を絞り出せたのは、奇跡に近い。
「私が人好きじゃいかんかね?」
「いや、だって、さ……」

 イジメの報復に小樽爆弾を持ち出し、
 名ばかりの親類に財産分与するぐらいならと使い切り、
 ハンターになったら、さっさと辺境に飛んだ人間の言葉には、とても。

 その時、花火の音が聞こえた。
 人のざわめきが、わぁっと大きくなる。
 そのどれもが、浮かれ、歌い、今日を謳歌している。

 そして、弟としては淋しい事に、
「ぬはははは。さて、私が人好きじゃあかんかねー?」
 姉の心は、既にあの喧噪の中にあるらしい。
 もはやその視線どころか体さえ窓から乗りだして。

 ここは二年前まで、何時潰れてもおかしくない小さな開拓村だった。
 その発展に尽力し、単身古龍に挑んでまで守ってきた、姉。
 姉の守り抜いた人々が築き上げた、町。
 そこに身を乗り出した姉が、言葉を待つ。
 首筋に添えられていたはずの矢は、いつの間にか放られていた。

「……まあ、人こそ危険ってのは確かかもしれないけど」
 そして、弟としては悔しいことに、
「でも、守りたいのも人なんだ」
 姉が既に、その望みを体現していた。

 そう、守りたいのも、やはり人だった。
「その道で、後悔しない?」
「……お陰で吹っ切れた」
 うやむやだった心に答えを得た。
 ここに来て良かったと思う。

 いつもは振り回してくれる姉でも、やっぱり……。
「ぇー」
 姉だった。
「何でそうなんの?」
 姉の表情は、不満その物。
 夕日に照らされた横顔も、頬を膨らませ口を尖らせていては美人もへったくれもない。
 弟、固めた決意が、早速危険。

「ま、結局ハンターにもなっちゃったしねえ……」
「……は?」
 そして何故、そこで七年も前の話が出てくるのか。

「お母さんに連れられてった時、泣いて帰って来る方に賭けてたのよ」
「……誰と?」
「おとん。んで、三ヶ月トイレ掃除」
 それは、恐らくは遠回しの仕置きなのではないのだろうかと。
 血を見て卒倒するような父が、医者とハンターを兼業していた。
 ……ひょっとして、結果が見えていたのだろうか?

「ったく、俺はそんな頼りないと思われてたわけ?」
 初耳だった。
 姉が、狩人になることに難色を示していたことが。
 父が、止めるだけ無駄だと悟っていたことが。
「剥ぎ取り出来るぐらいなら、黙って苛められてない」
 ……過剰防衛に関しては、目の前にとんでもない事例がいるのだが。

 唯一の身内はろくでなし、でも英雄。
 そして、何か思うように、憂うように村を見渡す目は、後者の物だった。
「まあアンタ今日、誕生日だしねー」
「……はい?」
 その、はずだった。

「うりゃ」
 窓から腰が浮く。バランスが崩れる。
 彼の視界がひっくり返り……。
「だあああああああああああっ!?」

 どさっ

 柔らかい地面の上だったからよかったようなものの……。
 そんな彼を余所に降りてくる姉。
 たった二年で、よくここまで身軽になった物だと思う。
 その姉が向かった先は……オープンカウンターな酒場。

「祭りだ祭りぃー、飲むよーん?」
 カウンターに腰掛け姉、臨戦態勢。
 既に、並々注がれたジョッキが並べられている。
「ちょ、姉貴、酒飲むの!?」
 姉と、酒。
 これだけでも既に災禍の前触れ。
 その対戦相手と思しき人物が、いない。

 悪い予感、嫌な予感。逃げだそうとした彼は、次の瞬間、何者かに羽交い締め。
「そういやディにお酒飲ませた事無かったねー」
「ちょ、まっ、何でお前がいるんだーっ!?」
 振り向けば、羽交い締めにしてるのは赤衣の男。
 彼が狩人の道に足を踏み入れた頃からの、数少ない友人。
「だって真面目な顔して何だろーって」
「おー、ラウりんぐっじょーぶ♪」
 姉、上機嫌。隠れた村長、樽の影からグッドラック。

「あ、あの、俺、まだ、今日十七に……」
「大丈夫、ここは私にならって十七からOKよーん?」
「ちょ、まっ、はーなーしーてーっ!!」
 二日酔いで暫くお世話になったのは言うまでも無い。

     ……守る為と思うことが、そもそもの間違いだったのだろうか。
     ……泣いても喚いても、結局その日はやってくる。

 ――蒼い月の消えた夜。荒野に、雨が降る。

 こべりついた血糊が、嫌味なほどに落ちていく。

 血の臭いも、ぬかるみも、嫌味な程に落ちていく。

 ただ、この手と心に、消えようの無い罪を残して。

 手が震えているのは、そのせいだ。

 幼い子供。人の殺し方をしっている子供。
 村の人、仲間、みんな殺した。
 親、兄弟、みんな殺した。
 俺が、でもこの子は、でも、だけど……

 いつでも撃てる。いつでも斬れる。
 手が強張っているのは、どちらも同じ。
 いっそ撃たれてしまおうか。

 そんな諦めが過ぎった次の瞬間、有らぬ方向からの力になぎ倒された。

 吹き飛ばされて転がった体を、どこか人ごとのように感じている自分がいた。

 人の声が聞こえる。
 銃声が聞こえる。
 飛竜の咆吼が聞こえて、途絶えた。
 何処までも蒼い蒼い無音の空間は、やがて闇に閉ざされた。

 悪い夢だと言えたらどれだけ良かったか。

 ……そして、俺は生きて朝を迎えた。
 運び込まれたんだろう、白いベッドの上。
 鳥の声も、風の音も無い。ただ、耳鳴りだけの世界。
 それが教える。アレは現実だったと。
 人を殺した。ひょっとしたら、一番の犠牲者だったかもしれない人を。

 人がいる。見覚えのある、白衣を着た。
 縋りたかった。縋り付いて、声を上げて泣きたかった。
 でも、その人の目を見て気付く。
 人を救い続けて来た、その目を見て。
 この人を待つ真っ白い命に、もう触れる資格は無いのだと。

 だから逃げた。
 伸ばされた手を払い、片隅に置かれたメモを捨て。
 逃げて、逃げて、結局、戻って来た。

…たかだか数十人の村に、熱くなったものじゃな。
 年寄り共の、怠惰な声がする。

…やれやれ、やはりまだ子供と言うことかの。
 ここに来るまでに、大体の事情を知る機会があった。

…それとも、やはり彼奴の子じゃしなあ。
 安易な挑発、この程度、乗るな。

…しかしはてさて、どうしたものかな。
 白々しい。何もかも、最初から全部知ってた癖に。

 知った上で話さない。
 損得でも何でもない。ただの怠惰。
 関わりない物など、捨ててもいいと思っている声。

 むしろ、こういう連中こそ切り捨ててやりたかった。

 あざけるような笑い声。
 いい加減、気配が強張るのが分かる。
 そろそろ……。

 助けてやるか。

「名ばかりの騎士に、負う責など無いはずですが」
 押し開けた扉の向こう。いつ見ても気が滅入る。
 無駄に照明を落として、ど真ん中だけきつい部屋。
 それ以前に貴様等の仕事じゃないだろうにこの老いぼれ共が。

 ……あの蒼い夜から、十七年と十ヶ月。
 ……長い、逃避行だった。

 ジジイ共の顔は相変わらず見えない。
 中央に立たされた若い騎士も、背を向けたまま。
 ドイツもコイツもノーリアクションか、つまらん。
 この子もこの子だ。律儀というか、単純と言うか。

 ……結局、全部戻ってきた。
 ……あの時のあの子は、捕らえられる事無く生き延びた。
 ……逃亡先が合致して、奇妙な縁に引きずられて、今や腹心の一人。

「ここに属する騎士は皆、私の部下だ。文句は言わせん」
 ったく、ちょっと離れるとすぐこれだ。
 ナイツが貴様等の私物だったのは過去の話。
 まして、今回のは完全に嫌がらせ……あー、切り捨ててしまいたい。
 三枚に下ろした上で溶岩の海に沈めてやりたい。

 ……人狩りの咎に汚れたこの手を嫌って、こっちから逃げ出した命も。
 ……こうして今、目の前にいる。

 振り向いたその子の顔に書いてあった「何事だ?」って。
 覚悟決めて、我を通して、友人や姉まで巻き込んで。
 ジャッシュまで蹴倒したのにオチがついたのだから無理も無いが。
 全く色味の違う眼の光に、あの日のあの子を思い出しす。
 何故だか、少し悔しかった。
「行くぞ、ディフィーグ」
「あ、はい……」

 ……それも、かつて付け損ねた名を背負ってというのだから。
 あの時のメモには、きっとこうあったんだ。
 男の子の案を貰う、と。

 帰りがけ読んだ手紙と、話させた内容は概ね合致した。
 唯一つの、嘘を除いて。
「まったく、こういうケースが一番困る」
 何が困るって、その嘘が露骨に私を狙ったもんだって事。

 最後の最後までこの子は呼び出されていなかった。
 私はあの子に、ジャッシュを呼べと言ったんだ。
 腕外されようが鼻へし折られようが、ネコタクに詰めてでも連れて来いと。
「全て……私の独断です」
 違う、そうじゃない。気付いてくれ若人よ。
「私も、力に溺れた愚か者なら両手に余るほど斬っているんだが……」
 あの子は私と一緒に密猟者しばきに行って、上申もへったくれも無かったんだ。

 敬語は不要。そう言ったのに、この律儀は誰に似た?

 ……あの子は、やっぱりまだ怨んでいたのか?
 それとも、いい加減逃げるなと言う事なのか?
 もしかしたら全て知った上で、友人と名付け親の引き合わせ?
 いや単純に、私とこの子の関係が、気に掛かっただけだろうか。
「どちらの主張も正しく、だが誤りであり、双方共にリスクを伴う」
 もし、そうだとしたら……。

 私も、少しぐらいからかったって、バチは当たるまい。

「ところで、サー・ディフィーグ」

 持ち上げた瞳に移っていたのは、覚悟と、意志。
 それでいい。

「……はい」

 がむしゃらでいい。
 真っ直ぐでいい。

「君は、自分の正義を主張しないのかね?」

     ――願わくば、その手が血に染まる、その後も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     ――どんなに祈っても願っても、世界は容赦なく、慈悲深く巡り行く――

 温暖期の太陽の下。
「……君……」
 その日は、門出に相応しい晴天だった。
「リィ君?」
「え、あ、うん。何?」
 雌火竜の鎧を纏った十九歳の姉と、竜人族の若者が、極彩色の帆を見送っていた。
 彼女が船頭の為に桃毛獣からもぎ取った毛を使った帆だ。
「やっぱり、淋しいかい?」
「んー、淋しい繋がりなのかねえ……」
 何処までも晴れ渡る空と裏腹に、姉の頭には靄がかかっていた。
「小さい頃に、ぬこたん連れてお菓子持ってきてくれたのがいたんだよねー」
「……へえ?」
「ぬこたんのフカフカと、お菓子の味は今でも覚えてるんだけどね」
 それは幼すぎる記憶。物心の定義などあやふやだ。
 幾つの頃かすら覚えていない。
 ただ……。

「お菓子と猫の人、ぱったり来なくなっちゃったのがね、うん」