弟が弄ばれているその頃。
 ここにもまた弄ばれる者がいた。

 そこは石造りの牢獄だった。
 その奥に蠢く影。それに合わせて漏れる声がある。

 その手が柔らかな曲線をなぞっていく。
「ほれ、ここか? ここが弱いのかえ?」
「あ、や、そこは……」
 実をよじる度に触れあう感覚に愉悦を覚える。
 この柔らかさと温もりをしったらもう止められない。

 その体が、何処を触れればどう反応するかは把握済みだ。
 軽く押してやるだけで確かな手応えを感じる。
「ほれ、そう力まず……」

 強張ったそこを解きほぐしてやる。
 父直伝のその技は、確実に体の力を抜いていく。
「あ、ちょ、そこは……」

 この指先の効き目は、既に幾度と無く実験済みだ。
 その心地よさも、一歩間違えた時の痛みも。

 突然押し倒された事に怯えていた体は、もう誰が押さえつける必要も無くなっていた。
 今はみな、ただその光景を眺めている。
 先に味わった恍惚を、思い出すような瞳で。

「そう嫌がらんでも、痛くはなかろうに」
 ここにいる全てが、私のしもべ。
 そして、ここにもまた一人……。

「ア、ア……」

 ニャ〜ン♪

   ――『どうせ癒せぬ傷ならば』――
       それは去る過ちと書く

「ほーれゴロゴロ〜」
「うにゃにゃ〜……♪」
 弟が弄ばれているその頃、姉は猫で遊んでいた。

 それなりに付いた筋肉で新人では無いことが判明。
 装備その他を取り上げられて幽閉の身となった姉。
 本人にしてみれば帰りの馬車で寝こけて、目覚めたらここにいた程度。
 暇つぶしにと食事係のアイルー達にマッサージ兼触診をしたところ……ご覧の通り。

 人が……もとい猫が猫を呼び今や大盛況。
「おまいさんこのへん凝っとるだろー、んー?」
 凝った筋肉をほぐしてやる。特に猫背の彼等は腰にきている。
 それだけで昇天するアイルーのなんと多いことか。
 弟で試したこと数知れず、父に咎められて痛いツボを突かれまくった事数知れず。

「んであとこの辺のツボがね……」
「ニャだだだだだだニャーっ!?」
「はい?」
 はて、記憶が正しければこの近辺に激痛を伴うようなツボは……。
「ここ?」
「いニャニャニャニャニャ!! 拷問ニャアーっ!!」
 ただ、可能性があるとすれば……。
「……君ら、ご飯食べてる?」
「三日前に」
「米虫、二、三匹」
「ヤマイモムシ一匹ニャ」
 栄養失調で、内臓のどこかに負荷がかかっている。
 ほぼ全員が同様の症状。腰の異様な凝り、あまりにあっけない籠絡。
 導き出せる答えは一つ。
「ここ、労働環境最っ低だわね……」

 さて、姉が不穏な気配を纏った所で弟はと言うと……。

「任務……任務だからこれ……」
 フリルのドレスを、「自分で」着直すハメになっていた。
 筆頭が、名店ロータス&ローゼスに手掛けさせたこのドレス。
 有事の際にも応対できるよう、内側に防具や武器を隠せる作りになっていたのだが……。

 肝心のそれらを付け忘れていた。

 正直泣きたい。
 泣きたいが、それをやると今度は化粧を自分でやるハメになるのは明白。
 そんなことになったら今度こそアイデンティティが崩壊する。
 そしてもう一人、筆頭の我が儘に泣かされた人物が。
「角竜婦人の息子なんて聞いてねーぞっ!?」
 筆頭の旧友らしい写真家の、グレッグ=マイン。
「息子をナイトにした時点で私が祟られるの確定だから、一緒に祟られてくれや」
「おーまーえーなーっ!!」
 死して尚、恐れられる母。
「……俺の親は、黒龍かなんかですか?」

「写真、帰る頃には出来てるかな?」
「マジでいらねえ……」
「しかしこれ下手すると母親より美人だぞ?」
「若いですからね。今後の手入……」
「イリス」
「……失言でした」

「無事に帰ったらとびきりの一枚撮ってやるよ。銀火竜の鱗をレフ版にしてな」

 と言うわけでその晩、子牛のように売られるはずだった少年ナイト。
 深夜の裏路地で強引に、無料で引き取られる事となった。
「そ、そんな、話が違います〜」
「はっ。そう上手い話は無ぇって事だ!」
 坊主頭にマッチョと言う、いかにもな男に掴み上げられた両手が痛い。
 ……後々の報復を胸にここは耐える。あくまで任務と言い聞かせて。

 ちなみに売り子は筆頭。
 化粧とは、使い方次第ではみすぼらしく見せる事もできるらしい。
 少々やりすぎたようだが。
「それでは我々は破産するしかありませぬ〜……」
 そして弱々しい演技の裏で、恐らく千里眼スキルを持てばこそ解る気配は雄弁に語っていた。
 この野郎、あとでくびり殺すと。
「おう、その爺さん始末しておけ」
「へいっ!」
 その八つ当たりを受けるのが何人かいるらしい。
 ……筆頭の裾の中に、黒鋼のガントレットが在ることにも気付かずに。

 抗麻酔薬を打たれていなかったら、その匂いをじっくり嗅ぐ機会は無かったろう。
 ……と、少し期待していたのだが、残念なことに無味無臭。
 なるほど。これなら知らぬ間に嗅がせて眠らせる事もできるだろう。
 わざと全身の力を抜いておく。
(飛竜の嗅覚なら解ったりするのかなぁ……?)
 担ぎ上げられたときは体つきで正体がばれないか不安だった。
 所がこのドレス、広がるレースと思うより厚い布地が体つきを完璧に偽装している。
 肌の露出もほぼ皆無。体重も然り。
 中に仕込んだ武器の音も、過剰な装飾が擦れ合う音に紛れている。

「へへっ……大した上玉だ」
(〜〜〜〜〜〜〜っ!?)
 完璧が行きすぎて、セクハラされても気付かれない。
 これなら麻酔で眠っていた方が良かったかもしれない。
(後で、ぜってーぶっ飛ばす……)
 そんなことを考えていたら、馬車の荷台に無造作に放り込まれた。
「……〜っ」
 装飾と装備が全身を打って、痛い。

 幸いにして、誰も中の様子を見ていないのでもんどり打つことは許されていたが。

 ……それから数刻後。
 夜空を舞う二つの翼。

 彼らが見下ろす先は、陸の孤島だった。
 街中にあって街ではない。
 無闇に広い庭は生け垣その他が複雑にのたくった迷宮。
 その間を縦横無尽に動く見張りの明かり。見下ろすだけで頭が痛い。

 緑の翼の下、その足に巻き付けた皮ベルト。
 それ掴んで体を支えてるのはいるのはナイツ筆頭。
「流石に、二十年前より固めているな」
 先ほどの連中、もちろん素手で殴り倒してきた。
「ディフィーグ一人では荷が重かったのでは?」
 もう一方にいるのはその副官。
「一人なら、ね。それに、二十年前と違うのは向こうだけじゃないさ」
「シェリー、降りますよ」
 一声鳴いて翼を翻す緑の翼。
 追従するもう一つの影は、宵闇に紛れていた。

 そして少年ナイトが連れて行かれた先。
(こりゃあ、彼氏がブチ切れんのも無理無いわな……)
 一言で言えば、ピンクだった。もっと口汚く言ってしまえば、汚ピンク。
 壁の色や中央に置かれたベッドの色もそう。
 真正面の壁のはガラス張りの浴室。
 首を二十五度以上傾けると十七歳が見ていけない物が目に入る。

 そして何より嫌悪感を沸き立たせるのが……。
「ほれ、もっと近う寄れ寄れ」
 どう見ても六十は過ぎている、脂ぎった、フルフルのような男だった。
 恐らく二十年前と同一人物。
 筆頭でも思い違いはするらしい。

 どちらにせよ、あんまりな光景に現実逃避しかけていた。
 そこへ……。

 べた。

(……べた?)
 目の前に、脂ぎった顔。
 その両手が、自分の両頬をなで回していた。
(――――――――っ!?)
 悲鳴を頭の中だけで済ませた自分、よくやった。
「おーおー可愛い奴じゃのぉー」
(いや、その前に、その前に、化粧、化粧落ちっ、つーかキーモーイーッ!!)
 されど脳内に悲鳴は継続中。
 実際の口元からは、「あ」に濁点のついたような声が漏れるだけだったが。
「あ……あの……あの……」
「んーどうしたかのー?」
 顔周りに粘っこい空気が充満する。
 今息を吸ったら、抗麻酔の効果など関係なく死ねそうな匂いである。
「湯を使わせてください……」
 零れた声は、自分の物と思えないほどに裏返っていた。

 浴室にはカーテンがあったのは幸いだった。

(あー、死ぬかと思った)
 残念そうな声が聞こえてきたが気にしない……鳥肌が立っても、我慢。
 忌々しいドレスを脱ぐ。影でバレないようカーテンにかける。
 一度フリルの厚みから解放されれば、その下は最低限の防具のみ。
 両腕のリストバンドには投げナイフがそれぞれ三本。
 膝から太股まで覆う金属部分には刃渡りこそ短いが細剣が二本。
 胸に詰めていたのはペイントボール。背中のリボンには拳銃まで入っていた。
 あと、小さめの角笛が一本。闘技場で使う竜笛か?
 よくぞこれだけ詰め込んだ。

 腰回りのラインに丸みを出すために詰めていたのはギルドガードベスト。
 それらを纏って、ようやく鏡を見る気になった。
(せっかくあんな思いまでしたのに……)
 化粧の崩れ方たるや凄まじい。
 右頬など、火傷の跡と相まってさらに悲惨。
「さっぱりして出ておいで〜」
(お望み通りすっぴんで出て行ってや……)
 狩り場に出向くハンターの為のメイク。
(落ちねーっ!!)
 どれだけ脂ぎった手でこすったらこうなるのだろうか?

 その頃、地下牢の出口で。
「お姉さん逃げないのニャ?」
「ちょーっと取り返したいもんがあるのよねー」

 その頃、遙か上空で。
「護衛に雇われたハンターが何人かいるようですが」
「ふむ……どうせ千里眼無しじゃ見物にもならんしな」

 その頃、バスルームの前。
「はよ出ておいで〜綺麗な腕輪が……ん?」
「たたたたたたたた大変ですーっ!!」
「ここここここここここっちもじゃーっ!!」

 そして、バスルームの中。
 鏡に映った自分の姿は、ありのままの自分と言えた。
 化粧でがちがちに比べれば。
 カーテンの向こうが騒がしくなってきたのは、そんな事を考えた時。
「女と猫が弾薬庫にーっ!!」
 嫌な予感、その一。
「あの娘、奴の子じゃーっ!!」
 嫌な予感、その二。
「ええええええええーっ!?」
「いい加減五月蠅ぇぞ」
 それも浴室のドアを開けた途端、嘘のように静まり返った。
 当然だ。
 美貌の令嬢がナイトに、それも火傷面の男に化けたとあっては。

 腰を抜かしたジジイと従者。
 細剣の先で腕輪を取り上げる。
「……そう言う事か、あのおっさんめ」
 仕事としては、余りにもあっけない。
 あとは一番の危険人物を確保して、コイツらをしょっ引いてしまえば終わり。
 そのはずだった。

 遠雷のように響く爆音がなければ。

 次いで焦臭い匂いが鼻をつけば尚更に。
「……ところで、女と猫が弾薬庫でどうしたって?」
「あ、あの……」
「即答!」
「ちょっとした銃撃戦をやりまして、その、あの、引火……」
 それだけなら、まだ馬鹿姉で済んだ。
 廊下の外を見なければ。
 燃えさかる館を見なければ。
「前に、証拠とか燃え尽きてくれたんで……」
 最悪だったのは炎の中に視た唯一の気配が、間違えようのない人だった事。

 加害者と、被害者と、姉。
 非情になるには、彼はまだ若かった。
「……逃げたきゃ逃げていいぜ」
 従者とジジイにペイントボールをぶつけておいた。
「ま、無理だと思うけど」
 千里眼と併用すれば見失うことはない。
 少し冷静になって視れば、周辺にいるのが頼もしすぎる。

 燃えさかる館。熱と光が視界を焼く。
 炎に恐れはなかった。むしろ、恐ろしくないことが恐いぐらいに。
 姉の気配は手繰りやすい。ただでさえ独特で、しかも身内だ。
 だが居場所が最悪だった。

 尖塔の最上階。周囲に逃げ場など全く無い。
 それでも臆せずに駆け上がれるのは、火勢が弱いだけではなかった。

「この馬鹿姉ーっ!!」
 再会直後に振り上げた手の平はしかし、振り下ろす直前で止められた。
「ディ君何やってんの?」
「アンタを助けに来たんじゃねーかっ!!」
 火の海にあって、姉の調子は相変わらずだった。
「よしよーし、いーこいーこ」
「おーまーえーなー……」
 心配して損をした。助けたはずの姉に頭を撫でられる始末。
 もう片方の手に、古びた本が抱えられていた。
「お、腕輪取り戻してくれたんだ」
(我が家のインテリは、どうしてこうも馬鹿なんだ……)
 それは数多の調合を成した者に送られる腕輪。
 それは数多の調合の秘術を記した本。

 腕輪と裏表紙に刻まれた名は二つ。
 Cyrus=Ain。ファーストネームの下にLynetと。
 遡ること二十一年前。
 恋人奪還のために証拠もろとも館を半壊させた男は父、サイラス=エインその人だった。
 ……その恋人が誰かはいわずもがな。

(墓参りの持参品、とびきり強い酒に決定……!)
 父に呆れる事はあったが、今日ほど怨んだ事は無かった。
「ったく……俺が来なかったらどうする気だったんだよ……」
「そりゃもちろん」
「やっぱ言わんでいい。帰るぞ」
「……どうやって?」

 炎は来た道を飲み込んでいた。
 眼下を彩る輝きは深紅でなく黄金だった。
「姉貴、ちょっと歯ぁ食いしばれ」

 そして、二人は飛んだ。

 それを、中庭から見守る影が二つ。
「筆頭、やはり人選を間違えたのではないでしょうか?」
 その輝きの中にあって銀の髪は色を変え、
「いやいや、二十年前に比べればマシだよ」
 黒の髪は変わらぬ色をたたえる。
「どう見ても全焼です」
「全壊よりいいだろう」
「半壊だったのでは?」

 ここは炎を免れていた。
 正しくは、炎が伝う物が無かった。
「麻酔から覚めた角竜婦人が黙ってると思うか?」
「……彼女は、その後どうなったのですか?」
「当時、彼女を抑えられるナイトがいなかった」
 二人の後ろに座す地の女王。
 彼女がそれらを、跡形もなく粉砕したが故に。
「なるほど。確かに当時よりマシですね」
「今度証拠を押さえられなかった場合、焼死体でごまかせる」
「は?」

 翼の下に猫と娘を。尻尾の下に不届き者を。
「財産没収免れた瞬間、私に向かってせせら笑ってくれたからな」
「筆頭……戯れも程々に」
 見上げた二人の視線の先に、幼い空の王がいた。

 風が頬を撫でる。

 風が髪を靡かせる。

 紅蓮の輝きは遙か眼下。

「ナイトってとことん手段選ばないねー」
 それは彼が先々週、体を張って炎龍から守った蒼火竜。
 ホムラと名付けられたリオレウス。宵闇に紛れるそれも、炎の上では良く映えた。
「前もって言われてたら、俺だってぶん殴ってた」
 仕込んであった竜笛は使わなかった。
 自分からやって来て、今か今かとタイミングを計ってくれていた。
 元より、笛で言うことを聞く子でない。
「ねえディ」
「何だ?」
「あの塔、燃えまくってね?」
 二人の眼下。先ほどまでいた尖塔が松明の如く燃えている。
 その燃え方は、異様な程に。
 そして、彼は警告したとおり、見失ってはいなかった。
「……姉上様、俺らを焼き殺そうとした奴を、広ーい心で許してやる気は?」
「あると思いますかね?」
 返事の変わりに、笑みが来た。

「ホムラ!」
「ホムラたん!」
 警告はした。逃げようとしても無理だと。
 まして、素人がナイトを手に掛けようなど千年早い。

「やっちまいなー!!」

 二人とも大事なことを忘れている。

 しがみついているのは足だった。