彼が幼くしてハンターを志したのは、ひとえにその家族の為である。
「姉貴ーっ! お願いだからやーめーてー!」
「リィ、お礼参りは良いが鬼人薬は止めなさい!!」
「あなた……お礼参りもまずいでしょ……」
「じゃあもし僕に何かあったら君はどうする?」
「ボコボコにするー……って違うわーっ!!」
 訂正。ひとえにその家族のせいである。

 末っ子は幼い頃、イジメられっ子だった。
 苛められていた原因、というのは心当たりがある。
「甘い!!」
 鬼人薬グレートと硬化薬グレートと、護符爪フルセットでやっといなせる拳を放つ母。
 防ぐ父も父である。彼を一番悩ませたのは事の原因となった姉であったが。
 こんな事を繰り返さぬ為にも強くなろうと、幼心に誓ったものである。

「チェストーッ!!」
「ぐはっ」
「……足下の注意を怠ったのが敗因だの」
  特に姉。この夫婦から何でこんなのが? と思うこと幾度か。

 そんな家族にあって末っ子には、宿命じみた不幸と思う事がある。
 受け継いだ母の才と父の気質が、これでもかと言うほど噛み合わなかった事。

   ――『銀鎖の記憶』――
     小さな狩人の門出

 初めての狩り場は十歳の頃。力を求めて引きずり出された先は砂漠のオアシス。
 ……アプケロスに半殺しの目にあった記憶は未だ生々しい。
 荷物に硬化薬グレードを仕込んでくれた父にどれほど感謝したか。
 結局母に取り上げられて命懸けだったのも今は……良い思い出になったら苦労はない。
 初めての剥ぎ取りはやはり恐かった。
 だが粗末にすると飛んでくるであろう母の拳はもっと恐かった。
「狩人の基本その一! 命を粗末に扱わない!!」
 傷だらけの体で、真っ赤に染まった自分の手は、その言葉に十分な説得力を付与していた。

 その二を尋ねたら考えていないと言われた。

 それから二年。母同伴ではあったが大抵のクエストはこなした。
 それでも、未だに一人で狩り場には行かせてもらえない。
 訓練所は前々から通っていたけれど……何かが違う。
 野生の飛竜と訓練所の飛竜では、明らかに何かが違う。
 それを表す言葉を彼はまだ知らなかったのだけれど。

 燻るのは行き場の無い好奇心。
 しかし言いつけを破れば一生狩りなんて出来ない体にされてしまうやも。
 父がその横にいたら最悪である。
 近くに医者が居ると言うことで加減のレベルが三つは減る。
 二、三メートルは吹っ飛んだ父が自分で自分の手当をしている姿はもう勘弁願いたい。

 夜明け前の光が射し込む我が家は、青い色と静かな空気に満ちていた。
 鏡に映った白い肌と、蒼い髪と、紫の瞳が浮き上がるような錯覚を覚える。
 ハンターシリーズの装備を引っぱり出す。
 ベッド脇にかけてあった翡翠色の帽子を被る。
 姉が隣で寝ている。気付かれぬよう武具を纏う。
 作った当初嫌っていた隙間は、最近では気にならなくなった。
 その光景は、例えば英雄譚の開幕を、例えば最後の決戦前を思わせた。

 父が母を伴って辺境へ向かう。
 帰ってくる時期はまちまちだが、少なくとも狩り場を往復する間はまず大丈夫。
 先ず心がけたのは姉より先に起きる事。
 これが意外と困難で、自分より遅く起きた姉を見たことがない。
 どこの年寄りだアンタは?
 などと問いかけようものなら強走薬の続く限り追い回され、拳で乱舞されるので言わない。
「ん〜……っよし……第一関門クリアっと……」
 このような時間に起きたのも初めてなら、横で姉が片手上げて寝ているのも初め……。

 片手?

「……姉貴?」
 青い空気が、奇妙に凍り付いた。
 指が呼ぶ。近寄る。ベッド横の机を指さす。引き出しの鍵はついたまま。
 中に入っていたのはいくつかの……採集ツアーに出向いた時に便利そうな品。
 さらに土台を使わねば届かない位置に保管されていたギルドカードまで。
 調合師の姉にハンターの自分を止めるのは不可能と悟っていたのだろうか?
 ふと、姉の用意してくれた薬瓶に見慣れぬラベルがあるのに気付く。

 ノルマ:竜骨【小】二○、ハチミツ一○、粘着草一○、落陽草一○、氷結晶あるだけ。

 胸に宿った小さな感謝は……その瞬間綺麗に吹っ飛んだ。
「……取って来いと?」
 伸びた手の親指が立つ。クエスト失敗は、恐らく死を意味するだろう。
 母にチクられたら、命はない。
 やはりいつもの姉である。自分が出し抜こうなど十年早いのか。
 溜息一つついてリビングに続く扉をゆっくり開ける。
(さて、第二関……うわ、ホントにそこで寝るのかよ……)
 隙間の向こう、クッションの上で赤虎のアイルーが丸まっている。
 彼は父の古い友人で、父が辺境の医療活動に赴く時は良く来てくれる。

 ……彼の訪問もまた、冒険の日を決定するバロメーターだった。
 しかしどうしたものかと思案する。
 ぽふんぽふんと布団を叩く音に姉の方を見る。
 姉の手が親指で窓を指す。
 カーテン裏にネットが隠してあった。
 家出する当人より用意周到な姉。
 あとは「グッドラック」とでも言いたげにヒラヒラ振って布団の中に引っ込んだ。

 ここですぐに出発に踏み切る事にしたのは幸いである。
 もし弟が覗き込んだらビビらせてやろうと、姉が両目を見開いて待っていたのだから。
「……玉の寝顔にゃ興味無しか」

 夜明け前の青い色が街を染める。
 ハンターの姿こそちらほらと見かけるものの、そこは既に異世界だった。
 冷たく澄み切った空気が、不思議と気分を高揚させる。

 白い峰が眩い雪山の空気に、よく似ていた。

「……寒っ」
 訂正。比較にならないほど寒い。採集ツアーに支給品は無い。
 姉の方も心得たもので、要求に見合った品を用意してくれていた。
 ポーチにはホットドリンクもあるがまずはキノコキムチを口に含む。
「〜っ……」
 ……常識外れに辛かった。むしろ痛い。
 涙がにじむほど辛いが、そのお陰でこの寒さは凌げそうだ。
「よっし、行きますか!」
 と、両手で頬を叩いてから気付く。

 ……はて、雪山にハチはいたっけか?

「ま、そりゃ姉貴が悪いって事で」
 纏った装備と千里珠の力で発動する「自動マーキング」で山を『視る』。
 大丈夫、特に大きなモンスターはいない。
 ドドブランゴの討伐訓練まだ受けて無かった事を思い出す。
 吹き下ろす風が、帽子の羽根飾りを軽く揺らした。

 初めての雪山、初めての冒険。
 慣れていくうちに冷えた空気の清涼を知る。
 ブランゴや白ランポス程度どうと言うことは無かった。
 ただ、自分は周りが思うよりできる。それを実感するのが楽しかった。
「さあ、何匹でもかかって来いよ!」
 ただ、自分の力を確認できる。それだけで良かった。

 こっそり作った水晶の双剣は、思いの外相性がいい。
 細身な剣の軽さそのままに、足取り軽く峰を駆け上がっていく。
 その後ろに、ギアノスの屍を山と築きながら。
「あ、竜骨剥がなきゃ」
 山が紅く染まっていたのは、恐らく西日のせいだけではあるまい。

 その頃のギルドにて。
「きききききききき緊急入ったわよ!!」
「んーそんな慌てちゃって。何処かの山に何か出た?」
「ディ君の向かった雪山にーっ!! ザインさんにばれたら街が滅ぶわー!」
「じゃあさっさと連絡入れて」
「何でそんなに冷静なのよーっ!」
「息子に何かあったら、彼女凹む前に首吊っちゃうわ」

 穏やかな風がその冷たさで肌を刺す。
 しかし、それさえ気にならぬ程に少年の心を掴むものがそこにはあった。
「すっげぇ……」
 上は夕闇におぼろなオーロラ。下には見た事の無い龍の抜け殻。
 横には、誰かが取り付けたのだろう誇らしげなギルドフラッグ。
 世界はただ、広かった。途方も無いほど、どこまでも。

 自動マーキングで探す。飛竜はいない。なら、飛竜以外の何かを。
 空を彩るオーロラ。踏みしめられる雪。雪解けの滴。凪ぐ風。
 彷徨う視線が『世界』を捉えるのに、さほど時間はかからなかった。

「ふ……ぁ……」
 ここが頂である事も忘れて四肢を投げ出してしまう。
 世界はただ広く、ただ深く、このまま、意識さえも溶け込んでしまいそうに……。
「って、寝たら死ぬわーっ!!」
 少年、あわや世界に殺されかける。

 そして、三つ目のキノコキムチを頬張ろうと突っ込んだ右手に、何か絡まっていた。

「……なんだこれ?」
 それは細い銀色の鎖。錆一つない白銀の鎖。
 先端に大小のリングが連なっているが、ここに何かはめてあっただろう形跡があった。
「ま、いっか」

 日はどっぷりと暮れてしまった。そろそろ帰還を考えないといけない。
「……ぉーい」
 遙か眼下より響く声。
(どうすっかなあ残りのノルマ……やらないと姉貴か母さんに殺される)
「ぉーぃ……」
(ハチミツはともかく、落陽草ぐらいは揃えないとダメだよなあ)
「おいこらあああああああーっ!!」
「どわああああああっ!?」
 少年、轟音に驚き転げ落ちる。視界が白一色に染まる。

 下が、雪の吹きだまりだったから良かったようなものの……。
「意外と情け無い声してるわねぇ……」
「いでてて……いきなり何だよぉ」
 やっとの思いで雪の吹き溜まりから顔を出す。

 まだ顔が冷たい。地味に目が痛い。
「へぇー……結構可愛いっていうか、ガキ?」
「ガキ言うな!! 大体……」
 目を開いてみたのは、精々姉と同じ程度の少女……
 もっとも、彼は平均より小柄な部類なので言われても仕方ないが。
 彼の言葉を途切れさせたのは彼女の纏う、本来なら暖かそうな毛皮一式だった。
 それが、無惨なほどボロボロになっている。
「大人の、王子様……期待してたんだけどなあ……」

 オーロラの青い光の下で、その汚れが血によるものと気付くのに数秒を要した。
「あ……ぶわっ!?」
 倒れ込んできた体は、恐いくらい軽かった。

「どうすんだよ、これぇ……」
 情け無いことに、突然の事態で半べその少年。
 それでも風の直接当たらぬ洞窟まで背負うぐらいの冷静さは残っていた。
 飛竜の巣でもあったのだろう、丁度風の吹き込まない場所があったのは幸いだった。
「えーっと、まず怪我の手当は……あー、もうやってあるな。となると雪山だから今度は体温……」

 体温……体温……体温……。
 そこまで考えて、ふと思いついた方法……。

「いやいやいやいやそれはまずいだろーっ!!」
 ろぉー……ろぉー……ろぉー……
 少年の絶叫が、雪山の穴蔵に響きわたる。
 残響の中で、僅かな間にすっかり意識に刻まれた声が言う。
「おいエロガキ、飯寄越せ」
「……はい」
 もはや返す言葉も無い。

「もぐもぐ……あのねえ、他に携帯食料とか、もがもが、ハフハフ……辛いわよこれ」
「じゃあいっぺんに全部食うなよ……」
 姉特性の激辛キムチ、瞬く間に食べられた。
 更にホットドリンク用に入っていた唐辛子を洞窟で取れたキノコと合わせてまた食べる。
「にしても生えてるんだな、キノコ」
「何、そんな事も知らないでここ入ったわけ?」
 ひょっとしたら、ハチミツもあるのかもしれない。

 がつがつ食べ続ける彼女……。
「そういや、アンタ名前は?」
 と、名前を問えば。
「ほーう、レディに先名乗らせるか」
 レディと名乗りつつまだ食べる。
 こうしてみると、一体どうしてこんなにボロボロだったのか解らない。
 口だけ回るタイプなのかもしれないが。
「……俺はディフィーグ=エイン。みんなはディって……」
「んじゃディフィ君? アタシはレタラ=ウパシ。レタ様でいいわよ」
「……レタ婆」
 当然殴られた。

 そして、ダメ元でハチミツとか無いよね? と、尋ねてみたら、答えは……。
「バッカねえ。雪山の生き物なめてたら、アンタ死ぬよ?」
 との事。
 麓の村からここに来ているらしく、着ている防寒具……マフモフもそこの特産品だとか。
「そういや、武器どうしたの?」
「……落としちゃったのよ。フルフルに襲われるし助けはお子様だしもう最悪」
 結局、そのまま追い回されて山奥に逃げ込み、遭難と相成った。
 なぜ山頂に来たのかまで、ディの思考は回らなかった。
 目の前の、氷壁にぶら下がる蜂の巣に目を奪われていたから。
「ホントにあった……」
 その下には落陽草も自生している。
 これで姉に殺される可能性は限りなくゼロになった。
「初めての場所にはまず採集って、結構チキンだったりするー?」
 背後でレタがケタケタ笑うのはもう気にしない。
 俺だってドドブラに挑むぐらいしたかった、と言えないのが父より継いだ気質である。
 いや、ドスファンゴぐらいだったら本当に挑んでも良かったのだが他に無かった。

「思わぬ緊急入ったから採集で良かったんじゃね?」
「んじゃ、責任持ってエスコートしてちょうだいな?」
「へいへい……」
「返事は跪いて御意!!」
「嫌だよ!!」